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「労働節」旅行~②河南省許昌市『伏皇后墓』『歇馬殿』編

2008年04月29日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
4月29日(火)1/2
さて、「列車事故」により「長距離バス」に切り替え、何とか「河南省」に近い都市「菏澤」まで辿り着いた「M先生」と俺。
「列車」での「予定」だと8:00前には「河南省鄭州」に着き、「火車站」前の「長距離汽車站」から「許昌」行きの「バス」に乗り、遅くとも12:00には「許昌」着を「想定」していました。
ここ「山東省菏澤」から、どうやって「許昌」まで出ようか考えていましたが、直接「許昌」まで行く「バス」が8:40にあるらしく、これは「ラッキー」でしたね。
「火車(列車)」で「鄭州」→「バス」で「許昌」まで出るのと、それほど「時間」に変わり無く「許昌」まで出れるんですから。
その代わり「出費」は嵩みましたが…
この「旅」では俺が「M先生」の分も「ほぼ全て」支払っていますからね。
「ホテル代」や「食費」は「1人」も「2人」も大して変わりません。
むしろ「食事」なんて「連れ」がいるおかげで、いつもの「カップ麺」や「ファーストフード」じゃなくなるからね。
けど「タクシー」以外の「交通費」は「2倍」(2人分)の「出費」になるからね~。
ま、それでも俺にとっては大切な「助手」なのだ。

今日は7:00「起床」し、8:00「ホテル」を「チェックアウト」しました。

「汽車站」から、ちょっと離れてたけど「いいホテル」でした。
これが「150元」で泊まれたなんて「M先生」の「友達」のおかげだね。

「ホテル」前から「タクシー」を拾い、8:10「菏澤汽車站」に到着。
「河南省許昌」行きの「バス」は、8:45に発車しました。

12:40「許昌汽車站」に着きました。
「許昌」は今年の「2月1日」以来「2度目」です。
その時の「旅」の「タイトル」は「三国史跡ハント・ファイナル」でした。
でも、まだ「史跡ハント」は続けていますが、その前回の「春節旅行」でほとんど「メジャー」な「史跡」は回り終えたんです。
今回「許昌」を選んだのは、「史跡」の「数」が多いのと、行くのに「不便」な「場所」が多いため、前回は「市内」の「2ヶ所」を「ハント」して、あとは「スルー」してたからなんですね。
そして今回は「日数」が費やせるのと、「M先生」という「辺鄙」な「場所」に行くための「ベスト・パートナー」がいるんでね。

この「許昌汽車站」内の「壁画」も、前回は「朝」早かったため(2月の7時はまだ暗かったため)、よく見えなかったんです。

今回は「写真」もキレイに撮れました。

「汽車站」を出ると、前には「火車站」があります。

13:00「昼飯」を食べました。
俺「1人」だったら何も食べていないでしょうね。
今回「許昌」は、今日の「半日」、明日の「1日」、明後日の「半日」と計「2日」の「史跡ハント」計画を立てました。
それでも「足りない」んですがね…でも俺にもそんな「余裕」は無いですから。
「旅」に出る前に「許昌」の「史跡」を「エリア」毎に別けて、どこから回るのが「効率」が良いか…「仕事」はそんなに「真剣」じゃないのに、「旅程思案」になるとメチャ「気合」が入ります。
今回「許昌」を「5つ」の「エリア」に別けました。
「エリア1」…「許昌市内」の『覇陵橋公園』と『董貴妃墓』
「エリア2」…「北部」の『華佗墓』『馬騰墓』『夏侯淵・夏侯惇墓』『賈詡墓』『射鹿台』
「エリア3」…「東部」の『八龍塚』『王允墓』『魏文帝廟』『漢愍帝陵』『張公祠』『毓秀台』『徐晃墓』
「エリア4」…「南部」の『徐母墓』『歇馬殿』『伏皇后墓』『受禅台』『献帝廟』
「エリア5」…「禹州市」の『五虎廟』『郭嘉故里』『水鏡洞』『東嶺関』『徐庶・徐母祠』
他にも「ピックアップ」した「史跡」や「許昌汽車站」で買った「市内地図」に載っていた「史跡」もありました。
さて…どれだけ回れるやら…

13:20「店」を出ました。
今日は「半日」なので、まず「エリア4」から回ることにしました。

「輪タク」を拾い、13:30「汽車南站」に着きました。
ここから「301路バス」が「エリア4」の「5ヶ所」の「史跡」付近を通ります。
「30分」待っても「301路バス」が来ないので、「M先生」が「従業員」に聞くと「ここには来ない」と。
「汽車南站」に着いた時の「話」じゃ「もう少し待てば来る」って事じゃなかったのかよ 
「いいかげん」やなぁ~
「先の交差点でバスに乗りなさい」と言うので行ってみるも、近くの「人民」に「聞き込み」するも、やっぱ「301路バス」は無さそうです。
その「付近」にあった「バス停」は「3路」で、一応「蒋李集鎮」という『徐母墓』『歇馬殿』『伏皇后墓』がある「鎮」までは行くようだったので、14:25「3路バス」に乗りました。
「301路」と「3路」が同じ「道」を走るなら「史跡」到達も「容易」だったんですがね…。
「301路」なら「史跡アタッカーさん(仮)」が「レポート」してくれてる「バス停」で降りられますから。
それと「史跡アタッカーさん(仮)」は「客運南站」と「レポート」してたので、俺らが「汽車南站」に着いた時は、そこで「客運南站」と「同じ」という事も「確認」しています。
しかも「中国人」の「M先生」が聞いてるんだから「間違い無い」はずです。

14:50「蒋李集鎮」で降りました。
そこで「聞き込み」すると、この「蒋李集鎮」の中の「劉庄」(村)へは、まだ「遠い」らしく、「3路」の「終点」から「タクシー」に乗るしか「交通手段」は無いらしいんです。
「301路」があれば「劉庄」の「入口」まで行けるのに…
すぐ「後発」の「3路バス」が来たので、乗り込み「終点」で降りました。
(乗ってから「バス停」2つくらいでしたが…)

15:05ごろ「輪タク」を拾い、「劉庄」に向かいました。
まずは「劉庄」の『伏皇后墓』から行きます。

15:35『伏皇后墓』に着きました。
『伏皇后(生年不詳 - 214年)』は『諸葛亮』と同じ「琅邪(現山東省・臨沂)」出身です。

『伏皇后』とは「後漢」最後の皇帝『献帝』の妻です。
父の「伏完」に『曹操』を「誹謗」する「手紙」を以前書いていたことが「発覚」し、「皇后」を廃され死亡し、一族も「処刑」されました。
「三国演義」では壁の間に隠れますが「華歆」に引きずり出され、棒で打ち殺されています。
「213年」に『曹操』が「魏公」になり、娘を(3人)『献帝』に嫁がせており、『伏皇后』の「死」の2ヶ月後に「皇后」になっていることからも、「言いがかり」をつけて「殺戮」したと「推測」されています。

「廟」の中の「塑像」は、『伏皇后』では無いようです。

「5年前」の「史跡アタッカーさん(仮)」の「写真」では「周囲」は「畑」で、この「墓陵」と「廟」と「碑」があるだけでした。
「5年」の間に「林」に埋もれてしまったようですね…

「墓陵」の上からの「景色」です。
辺りは「麦畑」です。
15:50『伏皇后墓』を後にし、次は「楊庄」に行きます。

『徐母墓』を素通りし、15:55『歇馬殿』に着きました。(入場無料)

「門」を入ると「正面」にあるのが「関公殿」です。

ここは『曹操』の下から「許昌」を「出奔」した『関羽』が、最初に泊まった所だと言われています。

「下邳」で『関羽』は『劉備』の2人の「夫人」を守るために『曹操』に降りました。
そして『劉備』の「消息」が分かると「覇陵橋」で『曹操』と別れ、『劉備』のいる「冀州」へ「糜夫人」と「甘夫人」を連れて「許昌」を出ました。

「殿」内の「壁画」です。
「桃園三結義」ですね…って「消火器」は「実物」ですから。

「右」側の「壁画」は『華佗』に「治療」してもらってる時の「絵」かな。

これは「関公殿」の「右」側にあった「徐母殿」です。

「右」側に『劉備』『諸葛亮』『関羽』の「塑像」があり、

「左」側に『趙雲』『張飛』『徐庶』の「塑像」がありました。

そして「中央」には『徐母(徐庶の母)』が祀られています。
しかし…『徐庶』の母なんて「三国演義」でちょっと「登場」するだけなのに…「破格の扱い」ですな。
この『歇馬殿』は他の「神」を祀る「殿」も「いくつか」ありましたが「三国志」関連しか「興味」が無いので見ませんでした。

「続き」は、さっき通り過ぎた『徐母墓』から「レポート」しまーす。


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