【2】
大丈夫かと言われれば、大丈夫と答えるしかない。
平気かと訊かれれば、平気よと胸を張る。
でも。
顔が見たかったからと言われたら、どんな反応をすればいいの。
柴崎が困ってうつむいたとき。
不意にそれは来た。
一瞬、空気が凪いだ。風音も何も聞こえない、無音の空間が訪れる。
直後、寮が家鳴りするようにきしみ、窓枠ががたがたっと音を立てた。
「!」
余震。
手塚が息を呑むのが分かった。身構え、柴崎の背にとっさに手を回す。
懐に引き寄せた。
柴崎は彼の胸に頬を押し当てられる。ジャージの素材が視界をふさぎ、柔軟剤のにおいが鼻先を掠めた。
すがりつくように柴崎が手塚のジャージを掴んだ。
手塚はドアを片手で押さえ、片手で柴崎を囲ったまま、しばらく微動だにしなかった。非常口を見据え、感覚を研ぎ澄ます。
もしもこれが長引いて揺れが大きくなったなら、最優先で柴崎を外に逃がす算段を考えた。真っ暗だが、そのためのルート確保を頭の中で行う。
二分も揺れ続けただろうか、かたかたとか細い音を引いて、振動はゆっくりと波が引くように収まった。
柴崎の部屋の左右のドアは開かなかった。もう寝入ってしまったか、慌てるほどの震度でもないと判断したか。どちらかは分からないが、手塚が戸口にいることはばれずに済んだ。不幸中の幸いだった。
「……収まったな」
緊張を解いて、手塚がため息をもらした。
安堵する。どっと疲れた。
「でかい余震だな。きっとまた来るぞ」
そう言って気がつく。柴崎がまだしがみついていることを。
手塚の腰に腕を回し、顔を押し当てているので、表情が見えない。手塚は彼女の背中をぽんぽんと手でさすってやった。
「柴崎? だいじょうぶか」
そうっと尋ねる。柴崎はまたかぶりを振った。
黒髪から、シャンプーの甘い香りが立ち上る。
「大丈夫じゃ、ない」
消え入りそうな声が胸元からした。手塚は聞き間違いかと思った。
顔を覗き込む。
柴崎は、それを嫌うようにいっそう彼の胸に顔を押し当てながら、
「大丈夫なわけないじゃない。地震、嫌い。……もうやだ」
と少女のように駄々をこねた。
手塚は困った顔を作り、しばし思案していたが、ややあってまた彼女の背中を優しくさすった。
「そうだな。嫌だな」と声をかけながら。
「俺も嫌だよ、たくさんだ」
「余震くるとか言わないで、ばか」
デリカシーないんだからと詰る。
「ごめん」
手塚は苦笑したのを悟られないよう声を絞る。
「暗いし怖いし、ほんときらい」
普段の柴崎の反応とは思えない。まるで子どもがえりをしたかのような。
でもなんだか手塚は嬉しかった。
大丈夫といわれるより、ずっとよかった。
「うん。分かってる」
手塚は足元に懐中電灯を置いた。両腕で彼女を抱きしめる。
もちろん加減して。
柴崎は手塚の腕にすっぽりと抱かれた。大きく息をつく。
抱かれているのに、呼吸がやっと楽になった気がした。今夜、地震が来てからはじめて。
身体と心のこわばりが、じょじょに解けていく感覚。
「よく頑張ったな。えらい」
ひとりで、夜をこらえて。今ようやく本音を見せた。
いじらしかった。
何度も何度も柴崎の背をあやすように撫でてやる。柴崎は泣きたいのをぐっと呑み込み、目を閉じた。
手塚のジャージから伝わる、心臓の鼓動が今世界中でなによりも確かで温かなものだった。
「中に、入って。ドア開けっ放しはまずいわ」
ついと身を離してそう言ったのは柴崎のほうだった。
戸惑ったのは手塚だ。
一瞬ドア先で棒立ちになる。
柴崎は部屋に彼を促して、ローテーブルの脇に膝をつく。キャンドルは余震でも倒れなかった。けれど根元に手を添えて、火事の危険性がないことを確かめる。
赤い炎が困惑する手塚の顔をぼんやり浮かび上がらせる。
柴崎は目で自分の隣を示した。
「入ったら」
「でも、」
手塚は明らかに当惑していた。
「まずいだろ、中は」
女子寮に今の時間帯忍び込んでいるのさえ、ばれたら処分扱いだ。下手をすると退寮ものだ。
そこで柴崎はふ、と笑みを漏らす。それは、ろうそくの危うい光の中ではひどく妖艶に映り、手塚をますます焦らせた。
「夜這いしといて、いまさらまずいとか言う?」
さすがにそれにはむっとして、手塚が言い返す。
「人聞き悪いこと言うな。犯罪者みたいじゃないかまるで」
俺は純粋にお前を心配して、と口元まで出かかる。柴崎はいつものペースを取り戻した様子で、
「何もしないんでしょ。ならいいじゃない」
来てよと、誘う。
まったく。手塚は舌打ちしたい気分だった。
さっきまで素直で可愛かったのにな。いじらしくすがって離れなくて。
一瞬の夢かあれはと愚痴りたくなる。
こんな時間に私室に男を招きいれて、いいのかよ。と少し黒い感情も吐露しそうになった。ままよ。
意を決して手塚がドアを閉める。暗い部屋に完全に二人きりになった。
「余震、怖いんだろ。まだ俺に居て欲しいんだよな」
冗談めかしてローテーブルの横に座ると、案の定柴崎が声を尖らせた。
「調子に乗るんじゃないわよ。噛むわよ」
ぎろっと睨まれる。でも、さっきの姿を目の当たりにしているので、効果はいつもの半分だ。
手塚はお前になら噛まれてもいいなと内心思いながら、
「少しくらい調子に乗ったっていいだろ。舞い上がるよ、俺だって」
と胡坐をかく。こんな状況に置かれたら、誰だって。
深夜、停電の夜、好きな女と二人。
まるでお膳立てされたようなシチュ。
「もう怖くないから」
そこだけ本気で言ってやると、柴崎は動きを止めた。
少しだけ頬が赤らんだように見えるのはろうそくの火が見せる錯覚か。
「……ふん」
先ほどの素直さの片鱗を見せて、柴崎はそっぽを向いた。
手塚のことを思えば、あのまま帰ってもらったほうがよかったのは分かっている。
こんな夜更け、ここに居ること自体問題なのに。発覚したら、ただでは済まされない。それは柴崎も分かっていたのに。どうしても行ってほしくなかった。傍にいてほしかった。
もう少し。あと三十分、ううん、十五分でも。
一度、この人の体温を知ってしまったら。たくましい腕に抱擁される安心感を知ったなら。
それから引き離されるのは、半身をもがれるような辛さだ。もう一度余震におびえる夜に戻されると思うだけで、足がすくむ。
でも「まだ帰らないで」と正直に口にすることなどできるはずもなく。冗談めかして言うしかなかった。入ってよ、誰かに見つかるわよそんなとこに立ってると、と。
手塚は大人の対応で言うとおりにしてくれたけど、きっとばれてる。伝わってる。
あたしが今夜どうしても一人でいたくないこと。
……なんでさっき、あんなこと口走っちゃったんだろう。
なんであんな、丸裸の言葉をこの男に差し出したの。
いつもは理性が何重もコーティングして、本音なんて見せてやることないのに。
なんのてらいもなく言えた。
怖い、だいじょうぶなんかじゃないと。
さっきだけは。どうして?
物珍しそうに部屋に視線を向ける手塚の横顔を、キャンドルの明かりが照らし出す。あまり露骨に見てはいけない。でも、こういう作りになっているんだな、女子のほうの部屋って、という思考が丸分かりで面白い。
ほんとに、どうして? この人は……。
柴崎は彼から目を離せないまま、じりじりと闇の濃度を増していく夜に身を任せた。
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大丈夫かと言われれば、大丈夫と答えるしかない。
平気かと訊かれれば、平気よと胸を張る。
でも。
顔が見たかったからと言われたら、どんな反応をすればいいの。
柴崎が困ってうつむいたとき。
不意にそれは来た。
一瞬、空気が凪いだ。風音も何も聞こえない、無音の空間が訪れる。
直後、寮が家鳴りするようにきしみ、窓枠ががたがたっと音を立てた。
「!」
余震。
手塚が息を呑むのが分かった。身構え、柴崎の背にとっさに手を回す。
懐に引き寄せた。
柴崎は彼の胸に頬を押し当てられる。ジャージの素材が視界をふさぎ、柔軟剤のにおいが鼻先を掠めた。
すがりつくように柴崎が手塚のジャージを掴んだ。
手塚はドアを片手で押さえ、片手で柴崎を囲ったまま、しばらく微動だにしなかった。非常口を見据え、感覚を研ぎ澄ます。
もしもこれが長引いて揺れが大きくなったなら、最優先で柴崎を外に逃がす算段を考えた。真っ暗だが、そのためのルート確保を頭の中で行う。
二分も揺れ続けただろうか、かたかたとか細い音を引いて、振動はゆっくりと波が引くように収まった。
柴崎の部屋の左右のドアは開かなかった。もう寝入ってしまったか、慌てるほどの震度でもないと判断したか。どちらかは分からないが、手塚が戸口にいることはばれずに済んだ。不幸中の幸いだった。
「……収まったな」
緊張を解いて、手塚がため息をもらした。
安堵する。どっと疲れた。
「でかい余震だな。きっとまた来るぞ」
そう言って気がつく。柴崎がまだしがみついていることを。
手塚の腰に腕を回し、顔を押し当てているので、表情が見えない。手塚は彼女の背中をぽんぽんと手でさすってやった。
「柴崎? だいじょうぶか」
そうっと尋ねる。柴崎はまたかぶりを振った。
黒髪から、シャンプーの甘い香りが立ち上る。
「大丈夫じゃ、ない」
消え入りそうな声が胸元からした。手塚は聞き間違いかと思った。
顔を覗き込む。
柴崎は、それを嫌うようにいっそう彼の胸に顔を押し当てながら、
「大丈夫なわけないじゃない。地震、嫌い。……もうやだ」
と少女のように駄々をこねた。
手塚は困った顔を作り、しばし思案していたが、ややあってまた彼女の背中を優しくさすった。
「そうだな。嫌だな」と声をかけながら。
「俺も嫌だよ、たくさんだ」
「余震くるとか言わないで、ばか」
デリカシーないんだからと詰る。
「ごめん」
手塚は苦笑したのを悟られないよう声を絞る。
「暗いし怖いし、ほんときらい」
普段の柴崎の反応とは思えない。まるで子どもがえりをしたかのような。
でもなんだか手塚は嬉しかった。
大丈夫といわれるより、ずっとよかった。
「うん。分かってる」
手塚は足元に懐中電灯を置いた。両腕で彼女を抱きしめる。
もちろん加減して。
柴崎は手塚の腕にすっぽりと抱かれた。大きく息をつく。
抱かれているのに、呼吸がやっと楽になった気がした。今夜、地震が来てからはじめて。
身体と心のこわばりが、じょじょに解けていく感覚。
「よく頑張ったな。えらい」
ひとりで、夜をこらえて。今ようやく本音を見せた。
いじらしかった。
何度も何度も柴崎の背をあやすように撫でてやる。柴崎は泣きたいのをぐっと呑み込み、目を閉じた。
手塚のジャージから伝わる、心臓の鼓動が今世界中でなによりも確かで温かなものだった。
「中に、入って。ドア開けっ放しはまずいわ」
ついと身を離してそう言ったのは柴崎のほうだった。
戸惑ったのは手塚だ。
一瞬ドア先で棒立ちになる。
柴崎は部屋に彼を促して、ローテーブルの脇に膝をつく。キャンドルは余震でも倒れなかった。けれど根元に手を添えて、火事の危険性がないことを確かめる。
赤い炎が困惑する手塚の顔をぼんやり浮かび上がらせる。
柴崎は目で自分の隣を示した。
「入ったら」
「でも、」
手塚は明らかに当惑していた。
「まずいだろ、中は」
女子寮に今の時間帯忍び込んでいるのさえ、ばれたら処分扱いだ。下手をすると退寮ものだ。
そこで柴崎はふ、と笑みを漏らす。それは、ろうそくの危うい光の中ではひどく妖艶に映り、手塚をますます焦らせた。
「夜這いしといて、いまさらまずいとか言う?」
さすがにそれにはむっとして、手塚が言い返す。
「人聞き悪いこと言うな。犯罪者みたいじゃないかまるで」
俺は純粋にお前を心配して、と口元まで出かかる。柴崎はいつものペースを取り戻した様子で、
「何もしないんでしょ。ならいいじゃない」
来てよと、誘う。
まったく。手塚は舌打ちしたい気分だった。
さっきまで素直で可愛かったのにな。いじらしくすがって離れなくて。
一瞬の夢かあれはと愚痴りたくなる。
こんな時間に私室に男を招きいれて、いいのかよ。と少し黒い感情も吐露しそうになった。ままよ。
意を決して手塚がドアを閉める。暗い部屋に完全に二人きりになった。
「余震、怖いんだろ。まだ俺に居て欲しいんだよな」
冗談めかしてローテーブルの横に座ると、案の定柴崎が声を尖らせた。
「調子に乗るんじゃないわよ。噛むわよ」
ぎろっと睨まれる。でも、さっきの姿を目の当たりにしているので、効果はいつもの半分だ。
手塚はお前になら噛まれてもいいなと内心思いながら、
「少しくらい調子に乗ったっていいだろ。舞い上がるよ、俺だって」
と胡坐をかく。こんな状況に置かれたら、誰だって。
深夜、停電の夜、好きな女と二人。
まるでお膳立てされたようなシチュ。
「もう怖くないから」
そこだけ本気で言ってやると、柴崎は動きを止めた。
少しだけ頬が赤らんだように見えるのはろうそくの火が見せる錯覚か。
「……ふん」
先ほどの素直さの片鱗を見せて、柴崎はそっぽを向いた。
手塚のことを思えば、あのまま帰ってもらったほうがよかったのは分かっている。
こんな夜更け、ここに居ること自体問題なのに。発覚したら、ただでは済まされない。それは柴崎も分かっていたのに。どうしても行ってほしくなかった。傍にいてほしかった。
もう少し。あと三十分、ううん、十五分でも。
一度、この人の体温を知ってしまったら。たくましい腕に抱擁される安心感を知ったなら。
それから引き離されるのは、半身をもがれるような辛さだ。もう一度余震におびえる夜に戻されると思うだけで、足がすくむ。
でも「まだ帰らないで」と正直に口にすることなどできるはずもなく。冗談めかして言うしかなかった。入ってよ、誰かに見つかるわよそんなとこに立ってると、と。
手塚は大人の対応で言うとおりにしてくれたけど、きっとばれてる。伝わってる。
あたしが今夜どうしても一人でいたくないこと。
……なんでさっき、あんなこと口走っちゃったんだろう。
なんであんな、丸裸の言葉をこの男に差し出したの。
いつもは理性が何重もコーティングして、本音なんて見せてやることないのに。
なんのてらいもなく言えた。
怖い、だいじょうぶなんかじゃないと。
さっきだけは。どうして?
物珍しそうに部屋に視線を向ける手塚の横顔を、キャンドルの明かりが照らし出す。あまり露骨に見てはいけない。でも、こういう作りになっているんだな、女子のほうの部屋って、という思考が丸分かりで面白い。
ほんとに、どうして? この人は……。
柴崎は彼から目を離せないまま、じりじりと闇の濃度を増していく夜に身を任せた。
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ノンビリお待ちくださるというコメントにどれだけ励まされたか知れません。
有難うの感謝をこめまして。続けていきたいと思います。
>たくねこさん しょーんさん
すみません遅くなりました。
年度末整理でいきなりハイトップな感じで仕事がかさみ、なかなか時間が割けずにごめんなさい。
気長にお付き合いくださると本当にありがたいです。
あだちさんが病んでるなら私は重症です
柴崎さん、可愛いな~
続きを楽しみにしています。
じれったい二人を書いていると
心が和むんです(笑)私は病んでいるのでしょうか・・・汗
ニヤニヤして読んでいただければ幸いです
たまらんっ!!!にやけるっ!!!
反抗期の小娘が、少し大きい揺れだとすがるような目で見てくるのは、そんなにかわいくないんですが…