【12】
「手塚。どうしたの。その傷」
翌朝。朝食の場に現れた手塚の手元に派手な傷跡があるのを見て郁が声をかける。
「痛ったそう。なに? 噛み傷?」
「あ、うん」
まあな。郁の視線から逃れるように右手をさりげなく隠す。
「ちょっと猫に噛まれた。気の強いやつでさ」
手塚はトレイを持って配給の列に並ぶ。
郁は猫ねえといぶかしげ。
「そんなに歯型つくまで噛まれるか普通? ってか、いつ猫なんか構ったのよ」
「ん、昨日の夜だよ」
「柴崎を送ったとき?」
「ああ」
見るからに痛そうなのに、手塚は頓着する様子もない。
郁は、
「薬塗ったら? 化膿するよ。せめて絆創膏とか」
「いいんだ。このままで」
手塚は微笑む。
「なんでよ」
「もったいないからだよ」
これはこのままでいい。一日、目に触れるままにしておきたい。
できるなら痕が残るといい。傷がふさがらないといい。
ずっと。
郁は怪訝な顔をしたが、それが今の手塚の素直な気持ちだった。
目を覚ますと、隣に柴崎はいなかった。毛布や寝袋がきちんとたたんでテント隅に重ねておいてあった。
時計を確認すると、5時前。
どうやら隊員たちが起き出す前に帰ったらしい。テントから出るところを見咎められたら大事になる。
分かってはいたけれど、やはり柴崎がいなくなっていたことに手塚は落胆した。
柴崎が怒って向けた背中が脳裏に浮かび上がる。あの後、手塚も柴崎と距離を置いて横になるしかなかった。
眠れないかもと思っていたが、睡魔は案外あっさりと訪れた。
もしかしたら柴崎より先に眠ってしまったかもしれない。隣に誰かいる、ぬくもりがあるという状況に安心し、久しぶりに深い眠りに落ちることができた。
それぐらい、ここに来てから夜の間も気を張っていたことが分かる。
とはいえ、柴崎より先に寝てしまったのだとしたら情けないと手塚は落ち込んだ。男としての体面の問題で。
ひとつテントの中に一晩いたのに、何事もしない。ぐうぐう眠る俺を見て、あいつはどう思っただろうと気になった。
呆れたかもな。
手塚は携帯を取り出し、柴崎にメールか電話してみようかとも思った。
けれど、止めた。
今、言葉を尽くして弁解しても意味がない。柴崎の気持ちは自分から余計遠ざかるだけだろう。
俺は俺に与えられた目の前の任務に専念する。
それが失地回復のための第一歩につながると思った。
だから手塚は自分を励ましてテントからえいと抜け出した。
今日も快晴だった。
駐屯地をぐるりと囲むように植えられた桜が、今日も絵画のように美しく咲いていた。
手塚は目を細め、桜を仰いだ。
多分柴崎も今日この地の桜を見るだろう。今俺がしているように空をそっと仰ぎながら。
それを思うだけでなんだか手塚は幸福だった。
そのとき風がざあっと枝を揺らし、花を浚った。
手塚の視界が一瞬薄いヴェールがかかったようになる。まだ痛みの残る右手を持ち上げ、手塚は柴崎のつけた噛み痕にそっと口づけを刻んだ。
柴崎は明け方、手塚のテントを辞した。
手塚は寝息も立てず深い眠りに就いていた。
片腕を枕にして横向きで。ぐっすりと眠りを貪る。
柴崎は上体を起こし、その寝姿をしばらく見守った。
疲れているんだわ。無理もない。毎日働きづめでテントに寝泊りして。いくらタフな特殊部隊班とはいえ過酷な任務。
ましてや、昨日は非番だっていうのにあたしの手伝いまでしてくれた。
「……手塚」
知らず、語りかけていた。東の空が白んでくるのを感じながら。
「ごめんね、昨日。加減なしで噛んで」
彼の右手を見る。歯型がくっきりと残され、ところどころうっ血して腫れ上がっている。
ごめん。素直じゃなくて。
柴崎は心の中で繰り返す。
「あんたが好きよ。だからあんまし哀しくなるようなこと、言わないで」
お願い。
眠っている手塚になら素直になれる。柴崎はため息をついた。
昨夜、伝えればよかったのだ。言葉にして。
そうすれば、きっと――
と、そこまで考えて、柴崎は自嘲する。
よそう。この男のことで「もしも」とか「たら・れば」の話をするのは。
あたしはこんな女だ。きっとこれからもこのまま、曲げられないラインを守って生きていくしかできない。
難儀だと思う。けれど、性格は今更直せない。後悔してもしようがない。
「でも、ごめん」
手塚の指の傷を見ると胸が痛む。柴崎は彼を起こさないように慎重に手塚の手を把った。
屈んで、そうっと唇を押し当てる。
触れるか、触れないかというぐらいそっと。
そして手を戻そうとし、気がつく。
どこからかテントに入り込んださくらの花びら。それが手塚の髪に一枚くっついている。
風に吹かれて昨夜舞い込んだのかしら。柴崎は手を伸ばし、花びらを摘んだ。
すべすべ。
ちょっと微笑み、それを口に含む。
噛んでみても、手塚の指の味しかしなかった。
昨日の夜自分の唇に触れた、彼の味。それがたまならなく幸せな気分にしてくれた。
「前略 手塚へ
元気? こないだは悪かったわね。いきなり参上して引っ張りまわして。非番だったのに。
結局黙って帰ってきちゃったし。
不義理だったわ。
人として、一宿一飯の礼はすべきよね。ありがと。
お世話になりました。
有休の最後の日もあたしは出発時間ぎりぎりまであの体育館で働きました。
で、リクエストがあると適当な本を選んで読み聞かせをしてね。
特別何ができたって訳でもない。どっちかっていうと、自分の力のなさを痛感した三日間だった。けど、それでもそっちに行ってよかったのかなって今は思います。
子供たちとか、避難してらっしゃる方々が別れを惜しんでくれるとね。
ほんの少しだけ、ちょっぴりでも役にたったかもしれないって思う。
実は、広瀬とか、あたしが有休取ってどこ行ったかって割と興味津々みたいで、戻ってきてから探りを入れられてるの。
でも今回そっちへ行った事は話してない。
できるなら、あんたから堂上教官や隊員たちにそれとなく言ってくれると助かるわ。
うまく口止めしてくれない? よろしく頼むわ。
あ、そうそう。あんたはもう体育館に来ないのかってあの後何人ものご婦人方に訊かれたわ。
地方のマダムの心まで虜にするのね。さすが色男ね。
時間があったらまたあそこに顔を出してみて。歓待してくれるはず。
あたしも、もう一度行きたいって思ってる。あ、その時はちゃんと連絡するわ。
電撃訪問はもうしないから安心して。
最後に。こないだのお詫びといってはあれですが。何枚か同封します。
早く治るように念をがっちり込めておいたから。
ちゃんと貼るのよ。じゃあね。
身体にだけは気をつけて。あんたのテント、すきま風が入るから。寝冷えしないようにしっかり毛布を掛けてね。風邪引かないで。
追伸・そっちのさくらはまだ咲いてる?
柴崎 麻子」
数日後、東京から封書が一通手塚のもとに届いた。
同封されていたのは防水、普通用と種類サイズさまざまの絆創膏だった。
【最終話】へ
web拍手を送る
メッセージボード
「手塚。どうしたの。その傷」
翌朝。朝食の場に現れた手塚の手元に派手な傷跡があるのを見て郁が声をかける。
「痛ったそう。なに? 噛み傷?」
「あ、うん」
まあな。郁の視線から逃れるように右手をさりげなく隠す。
「ちょっと猫に噛まれた。気の強いやつでさ」
手塚はトレイを持って配給の列に並ぶ。
郁は猫ねえといぶかしげ。
「そんなに歯型つくまで噛まれるか普通? ってか、いつ猫なんか構ったのよ」
「ん、昨日の夜だよ」
「柴崎を送ったとき?」
「ああ」
見るからに痛そうなのに、手塚は頓着する様子もない。
郁は、
「薬塗ったら? 化膿するよ。せめて絆創膏とか」
「いいんだ。このままで」
手塚は微笑む。
「なんでよ」
「もったいないからだよ」
これはこのままでいい。一日、目に触れるままにしておきたい。
できるなら痕が残るといい。傷がふさがらないといい。
ずっと。
郁は怪訝な顔をしたが、それが今の手塚の素直な気持ちだった。
目を覚ますと、隣に柴崎はいなかった。毛布や寝袋がきちんとたたんでテント隅に重ねておいてあった。
時計を確認すると、5時前。
どうやら隊員たちが起き出す前に帰ったらしい。テントから出るところを見咎められたら大事になる。
分かってはいたけれど、やはり柴崎がいなくなっていたことに手塚は落胆した。
柴崎が怒って向けた背中が脳裏に浮かび上がる。あの後、手塚も柴崎と距離を置いて横になるしかなかった。
眠れないかもと思っていたが、睡魔は案外あっさりと訪れた。
もしかしたら柴崎より先に眠ってしまったかもしれない。隣に誰かいる、ぬくもりがあるという状況に安心し、久しぶりに深い眠りに落ちることができた。
それぐらい、ここに来てから夜の間も気を張っていたことが分かる。
とはいえ、柴崎より先に寝てしまったのだとしたら情けないと手塚は落ち込んだ。男としての体面の問題で。
ひとつテントの中に一晩いたのに、何事もしない。ぐうぐう眠る俺を見て、あいつはどう思っただろうと気になった。
呆れたかもな。
手塚は携帯を取り出し、柴崎にメールか電話してみようかとも思った。
けれど、止めた。
今、言葉を尽くして弁解しても意味がない。柴崎の気持ちは自分から余計遠ざかるだけだろう。
俺は俺に与えられた目の前の任務に専念する。
それが失地回復のための第一歩につながると思った。
だから手塚は自分を励ましてテントからえいと抜け出した。
今日も快晴だった。
駐屯地をぐるりと囲むように植えられた桜が、今日も絵画のように美しく咲いていた。
手塚は目を細め、桜を仰いだ。
多分柴崎も今日この地の桜を見るだろう。今俺がしているように空をそっと仰ぎながら。
それを思うだけでなんだか手塚は幸福だった。
そのとき風がざあっと枝を揺らし、花を浚った。
手塚の視界が一瞬薄いヴェールがかかったようになる。まだ痛みの残る右手を持ち上げ、手塚は柴崎のつけた噛み痕にそっと口づけを刻んだ。
柴崎は明け方、手塚のテントを辞した。
手塚は寝息も立てず深い眠りに就いていた。
片腕を枕にして横向きで。ぐっすりと眠りを貪る。
柴崎は上体を起こし、その寝姿をしばらく見守った。
疲れているんだわ。無理もない。毎日働きづめでテントに寝泊りして。いくらタフな特殊部隊班とはいえ過酷な任務。
ましてや、昨日は非番だっていうのにあたしの手伝いまでしてくれた。
「……手塚」
知らず、語りかけていた。東の空が白んでくるのを感じながら。
「ごめんね、昨日。加減なしで噛んで」
彼の右手を見る。歯型がくっきりと残され、ところどころうっ血して腫れ上がっている。
ごめん。素直じゃなくて。
柴崎は心の中で繰り返す。
「あんたが好きよ。だからあんまし哀しくなるようなこと、言わないで」
お願い。
眠っている手塚になら素直になれる。柴崎はため息をついた。
昨夜、伝えればよかったのだ。言葉にして。
そうすれば、きっと――
と、そこまで考えて、柴崎は自嘲する。
よそう。この男のことで「もしも」とか「たら・れば」の話をするのは。
あたしはこんな女だ。きっとこれからもこのまま、曲げられないラインを守って生きていくしかできない。
難儀だと思う。けれど、性格は今更直せない。後悔してもしようがない。
「でも、ごめん」
手塚の指の傷を見ると胸が痛む。柴崎は彼を起こさないように慎重に手塚の手を把った。
屈んで、そうっと唇を押し当てる。
触れるか、触れないかというぐらいそっと。
そして手を戻そうとし、気がつく。
どこからかテントに入り込んださくらの花びら。それが手塚の髪に一枚くっついている。
風に吹かれて昨夜舞い込んだのかしら。柴崎は手を伸ばし、花びらを摘んだ。
すべすべ。
ちょっと微笑み、それを口に含む。
噛んでみても、手塚の指の味しかしなかった。
昨日の夜自分の唇に触れた、彼の味。それがたまならなく幸せな気分にしてくれた。
「前略 手塚へ
元気? こないだは悪かったわね。いきなり参上して引っ張りまわして。非番だったのに。
結局黙って帰ってきちゃったし。
不義理だったわ。
人として、一宿一飯の礼はすべきよね。ありがと。
お世話になりました。
有休の最後の日もあたしは出発時間ぎりぎりまであの体育館で働きました。
で、リクエストがあると適当な本を選んで読み聞かせをしてね。
特別何ができたって訳でもない。どっちかっていうと、自分の力のなさを痛感した三日間だった。けど、それでもそっちに行ってよかったのかなって今は思います。
子供たちとか、避難してらっしゃる方々が別れを惜しんでくれるとね。
ほんの少しだけ、ちょっぴりでも役にたったかもしれないって思う。
実は、広瀬とか、あたしが有休取ってどこ行ったかって割と興味津々みたいで、戻ってきてから探りを入れられてるの。
でも今回そっちへ行った事は話してない。
できるなら、あんたから堂上教官や隊員たちにそれとなく言ってくれると助かるわ。
うまく口止めしてくれない? よろしく頼むわ。
あ、そうそう。あんたはもう体育館に来ないのかってあの後何人ものご婦人方に訊かれたわ。
地方のマダムの心まで虜にするのね。さすが色男ね。
時間があったらまたあそこに顔を出してみて。歓待してくれるはず。
あたしも、もう一度行きたいって思ってる。あ、その時はちゃんと連絡するわ。
電撃訪問はもうしないから安心して。
最後に。こないだのお詫びといってはあれですが。何枚か同封します。
早く治るように念をがっちり込めておいたから。
ちゃんと貼るのよ。じゃあね。
身体にだけは気をつけて。あんたのテント、すきま風が入るから。寝冷えしないようにしっかり毛布を掛けてね。風邪引かないで。
追伸・そっちのさくらはまだ咲いてる?
柴崎 麻子」
数日後、東京から封書が一通手塚のもとに届いた。
同封されていたのは防水、普通用と種類サイズさまざまの絆創膏だった。
【最終話】へ
web拍手を送る
メッセージボード
柴崎の心の奥に、カラフルな絆創膏をプレゼントしたいです。
かわいすぎて、たまりません
やっぱり、もだえるので走ってきます(ダッシュ!)
「もったいないからだよ」
だって。
きゃ~~っ!
私も走ってきます!
もちろん柴崎あっての手塚。
二人の関係、距離感、自分は大好きなんだなと書いていて思いました。
お二方いつもコメント有難うございました。