【10】
「……分かった」
短く手塚は言って、柴崎に手を伸ばした。
「えっ」
不意を衝かれ柴崎が身構える。
ウソ。待って。まだ、心の準備が。
とっさに身を引いた柴崎の膝から手塚は寝袋を取り上げた。
手探りでジッパーを下げる。
暗がりとは思えない。暗視スコープでもつけているような手際のよさ。
「中に入って」
それに柴崎を突っ込んでぴっちり首までチャックを上げ、毛布の上に横たえる。
え? ええ?
あれよあれよという間に寝支度完了。柴崎は仰向けにテントの天井を仰ぐ形となっていた。
その横に手塚が横向きで寝そべる。足元から肩にかけて毛布を広げた。
片腕を頭の後ろに差しこみ、枕代わりにして手塚が言った。
「これでいいんだろ」
ぶっすりと不機嫌そうな声が耳の横で聞こえて、思わず柴崎は忍び笑い。
「そうね。でも、ねえ」
「なんだ」
「身動きできないわ。これじゃ蓑虫よまるで」
寝袋から頭だけ出す格好にさせられた柴崎は、顔だけ手塚に向ける。
まるで着ぐるみを着せられたようだ。苦しい。
「冷えなくていいだろ。肩出すなよ」
手塚は柴崎の上に毛布がちゃんと掛かっているかどうか確かめる。
親が、熱を出した子供の看病をするように。
柴崎は手塚の呼吸を頬に感じながら、複雑な思いに捕らわれていた。
……あんたはこの状況であたしの隣に来て、衣服を脱がせるのではなく、しっかりと暖を取らせようとするの。
風邪を引かせないために。自分はろくに毛布も着ないで。ジャージのままテントに寝転がって。
あたしだけ、こんなに大切に扱って。
性的なことをするんじゃなく。むしろその反対のことを?
「……手塚」
「ん?」
「あんたがさ、あたしをここに誘ったのってさ」
もしかして。
そこまで言って、柴崎は口をつぐむ。
あたしとそういう関係になりたいからじゃなくて、あたしと一緒にいたい、少しでも長くって純粋に思ってくれたから、なの?
手を出そうとか、下心はなく?
初めて見る、寝そべった位置からの手塚の顔。闇に慣れた目が徐々に捕らえ始める。
「……なんだよ」
幾分警戒した声音で手塚が窺う。
「いい。なんでもない」
柴崎は顔を天井に戻した。夜でよかった。暗やみでよかった。
顔を見られずに済んで。
一番尋ねたい大事なことだけれど、聞きたいようなもう聞かなくてもいいような。
あいまいな感情に柴崎は揺れる。
どっちにせよ、胸が詰まるのに代わりはない。
「ちゃんと寝ろよ。お前、あれこれ働いて疲れてるんだから」
手塚は腕枕をしていないほうの手を、躊躇いがちに柴崎の首の下の毛布のところに置いた。
とん、と軽くはたいてやる。幼い子にの寝つきに母親がよくやるように。
本当の添い寝だわ。柴崎はなんだか笑いたくなった。
余計な気を回してどきどきしていた自分が恥ずかしいのと、手塚の心遣いが嬉しいのとがごっちゃになった。
「はあい」
だから珍しく素直に言って、柴崎は鼻先を手塚の鎖骨らへんにくっつけた。
唇が触れるのに気づかない振りで頬ずり。
「お、おい」
柴崎の前髪があごの下に当たり、手塚が動揺する。
「寒いんだもん。風邪引いちゃう」
余計にぴとりと身を寄せる。手塚の懐に入り込む。
寝袋を通じてでも、手塚の動揺が伝わってくる。それがただ好ましい。
寒いといわれれば身を離すこともできず、硬直したまま手塚は横になっていた。
「あんたは温かいわね」
吐息をつきながら柴崎が囁く。
手塚は、「そうか? 俺平熱高いから」と訳の分からぬ返答。
「……ばか。体温のことを言ってるんじゃないの」
呆れて柴崎が突っ込む。
困惑している風の手塚に、「もおいい。何か話してよ」と振る。
「話?」
「そう。あたしが気持ちよく眠れるように」
「また無茶振りを」
読み聞かせのプロに俺が何を話してきかせられるっていうんだよ。
渋る手塚を柴崎がせかす。
「いーから、何か話して、さあ。昔話でも、なんでも」
「強引だな」
手塚は昔話ねえと首を捻って、記憶を呼び戻す。
ややあって、
「……桜といえば、俺、小さい頃。桜の木の根元を避けて歩いてた時期がある」
ようやく思い至ったのか、そう切り出した。
「どうして?」
「死体が埋められてるって信じてた。だから木があるたびにこう迂回してさ」
柴崎は微笑む。
「梶井?」
手塚の読書遍歴は伊達じゃないわね。内心感心しながら柴崎が言うと、手塚は頷いた。
「たぶん。だから並木道なんか大変なわけだ。数メートルの間隔ごと避けて歩かなくちゃならないわけだから。まっすぐ歩けなくてうねうねと曲がってさ。家族で花見とかに出かけると兄貴とか【光は何やってるんだ】とか不審そうにしてさ」
さらっと慧の話題が出た。手塚が昔語りで自分から兄のことに触れるのは珍しいことだった。
柴崎は気がついたけれども、手塚の声が穏やかだったので、あえて流して答えた。
「そんな小さい頃から梶井を読んでたなんて。あんたらしいわ」
「そうか? 怖かったんだぜ。桜の根っ子の辺りを踏んだら死んだ人に失礼だし、罰が当たると思ってたんだ。だから桜は、得意じゃなかったな」
今は平気だけど。そう括った。
「あたしは小さい頃、桜の花をよく食べてた」
唐突に突拍子もないことを言い出だしたので、手塚は驚く。
「食べてた? 本当に?」
「うん。風が吹いてばあっと花びらが散るじゃない? そうするとこう口を開けてぱくっと」
「変なやつ」
「失礼ね。事情があんのよ」
「事情?」
柴崎は思い出す。
あれはいつのことだろう。物心つくかつかないかといった頃だ。
実家の傍に見事な枝振りのソメイヨシノがあった。春の季節。その幹に隠れるようにして妙齢の男女が寄り添うのを幼い頃に偶然見かけた。
デートをしていたのだと思う。もう男の顔も女の顔も忘れたけれど、ひとつだけ強烈に目に焼きついた光景があった。
男が、女に桜の花びらを食べさせていたのだ。
親指でそっと女の唇を押し開いて、雪の欠片のような白い花びらを口の中に入れた。
女は男の指ごと、花びらを含んだ。
ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。男は花びらを食べた女の肩を抱き、二人は寄り添って歩き去った。
忘れられない。今でも。
「それってさ、」
手塚が幾分呑まれたように声を低めた。
「うん。ラブシーンだったんだと思う。当時は気がつかなかったけれど」
外だからキスできなかった。キスの代わりの行為だったのかもしれない。
今なら分かる。あれは明らかに男女の交愛の場面だった。
「あたし、子供心に桜っておいしいのかなあって、その後ぱくぱく食べてたの。その女の人があまり美味しそうに食べてるように見えたのね」
美味しかったのは、花びらじゃなく相手の指だったのにね。そう言って微笑う。
相槌かなにかあると思いきや、手塚は黙ったままだった。
「手塚? 聞いてる」
まさかもうあんたのほうが眠ってしまったのでは。そう疑うくらいの長い間が空いてから、柴崎の口元にふっと何かが触れた。
手塚の手。
親指が、柴崎の唇の輪郭をなぞる。それはそれはゆっくりと。
柴崎が金縛りにあったように動けなくなる。寝袋の中硬直した。
体重を柴崎に幾分かけるように身を寄せて、手塚はふっくらと程よく隆起した柴崎の唇を指先で確かめる。
官能的なしぐさ。柴崎はなすがままだ。
手塚は柴崎の上唇と下唇の間に、わずか親指を挿し込んだ。そして、
「……食わせてやろうか。俺が」
お前、さくら、好きなんだろうと囁いた。
柴崎は呼吸を止めた。俺のことが好きなんだろう。まるでそう訊かれているようだった。
【12】
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「……分かった」
短く手塚は言って、柴崎に手を伸ばした。
「えっ」
不意を衝かれ柴崎が身構える。
ウソ。待って。まだ、心の準備が。
とっさに身を引いた柴崎の膝から手塚は寝袋を取り上げた。
手探りでジッパーを下げる。
暗がりとは思えない。暗視スコープでもつけているような手際のよさ。
「中に入って」
それに柴崎を突っ込んでぴっちり首までチャックを上げ、毛布の上に横たえる。
え? ええ?
あれよあれよという間に寝支度完了。柴崎は仰向けにテントの天井を仰ぐ形となっていた。
その横に手塚が横向きで寝そべる。足元から肩にかけて毛布を広げた。
片腕を頭の後ろに差しこみ、枕代わりにして手塚が言った。
「これでいいんだろ」
ぶっすりと不機嫌そうな声が耳の横で聞こえて、思わず柴崎は忍び笑い。
「そうね。でも、ねえ」
「なんだ」
「身動きできないわ。これじゃ蓑虫よまるで」
寝袋から頭だけ出す格好にさせられた柴崎は、顔だけ手塚に向ける。
まるで着ぐるみを着せられたようだ。苦しい。
「冷えなくていいだろ。肩出すなよ」
手塚は柴崎の上に毛布がちゃんと掛かっているかどうか確かめる。
親が、熱を出した子供の看病をするように。
柴崎は手塚の呼吸を頬に感じながら、複雑な思いに捕らわれていた。
……あんたはこの状況であたしの隣に来て、衣服を脱がせるのではなく、しっかりと暖を取らせようとするの。
風邪を引かせないために。自分はろくに毛布も着ないで。ジャージのままテントに寝転がって。
あたしだけ、こんなに大切に扱って。
性的なことをするんじゃなく。むしろその反対のことを?
「……手塚」
「ん?」
「あんたがさ、あたしをここに誘ったのってさ」
もしかして。
そこまで言って、柴崎は口をつぐむ。
あたしとそういう関係になりたいからじゃなくて、あたしと一緒にいたい、少しでも長くって純粋に思ってくれたから、なの?
手を出そうとか、下心はなく?
初めて見る、寝そべった位置からの手塚の顔。闇に慣れた目が徐々に捕らえ始める。
「……なんだよ」
幾分警戒した声音で手塚が窺う。
「いい。なんでもない」
柴崎は顔を天井に戻した。夜でよかった。暗やみでよかった。
顔を見られずに済んで。
一番尋ねたい大事なことだけれど、聞きたいようなもう聞かなくてもいいような。
あいまいな感情に柴崎は揺れる。
どっちにせよ、胸が詰まるのに代わりはない。
「ちゃんと寝ろよ。お前、あれこれ働いて疲れてるんだから」
手塚は腕枕をしていないほうの手を、躊躇いがちに柴崎の首の下の毛布のところに置いた。
とん、と軽くはたいてやる。幼い子にの寝つきに母親がよくやるように。
本当の添い寝だわ。柴崎はなんだか笑いたくなった。
余計な気を回してどきどきしていた自分が恥ずかしいのと、手塚の心遣いが嬉しいのとがごっちゃになった。
「はあい」
だから珍しく素直に言って、柴崎は鼻先を手塚の鎖骨らへんにくっつけた。
唇が触れるのに気づかない振りで頬ずり。
「お、おい」
柴崎の前髪があごの下に当たり、手塚が動揺する。
「寒いんだもん。風邪引いちゃう」
余計にぴとりと身を寄せる。手塚の懐に入り込む。
寝袋を通じてでも、手塚の動揺が伝わってくる。それがただ好ましい。
寒いといわれれば身を離すこともできず、硬直したまま手塚は横になっていた。
「あんたは温かいわね」
吐息をつきながら柴崎が囁く。
手塚は、「そうか? 俺平熱高いから」と訳の分からぬ返答。
「……ばか。体温のことを言ってるんじゃないの」
呆れて柴崎が突っ込む。
困惑している風の手塚に、「もおいい。何か話してよ」と振る。
「話?」
「そう。あたしが気持ちよく眠れるように」
「また無茶振りを」
読み聞かせのプロに俺が何を話してきかせられるっていうんだよ。
渋る手塚を柴崎がせかす。
「いーから、何か話して、さあ。昔話でも、なんでも」
「強引だな」
手塚は昔話ねえと首を捻って、記憶を呼び戻す。
ややあって、
「……桜といえば、俺、小さい頃。桜の木の根元を避けて歩いてた時期がある」
ようやく思い至ったのか、そう切り出した。
「どうして?」
「死体が埋められてるって信じてた。だから木があるたびにこう迂回してさ」
柴崎は微笑む。
「梶井?」
手塚の読書遍歴は伊達じゃないわね。内心感心しながら柴崎が言うと、手塚は頷いた。
「たぶん。だから並木道なんか大変なわけだ。数メートルの間隔ごと避けて歩かなくちゃならないわけだから。まっすぐ歩けなくてうねうねと曲がってさ。家族で花見とかに出かけると兄貴とか【光は何やってるんだ】とか不審そうにしてさ」
さらっと慧の話題が出た。手塚が昔語りで自分から兄のことに触れるのは珍しいことだった。
柴崎は気がついたけれども、手塚の声が穏やかだったので、あえて流して答えた。
「そんな小さい頃から梶井を読んでたなんて。あんたらしいわ」
「そうか? 怖かったんだぜ。桜の根っ子の辺りを踏んだら死んだ人に失礼だし、罰が当たると思ってたんだ。だから桜は、得意じゃなかったな」
今は平気だけど。そう括った。
「あたしは小さい頃、桜の花をよく食べてた」
唐突に突拍子もないことを言い出だしたので、手塚は驚く。
「食べてた? 本当に?」
「うん。風が吹いてばあっと花びらが散るじゃない? そうするとこう口を開けてぱくっと」
「変なやつ」
「失礼ね。事情があんのよ」
「事情?」
柴崎は思い出す。
あれはいつのことだろう。物心つくかつかないかといった頃だ。
実家の傍に見事な枝振りのソメイヨシノがあった。春の季節。その幹に隠れるようにして妙齢の男女が寄り添うのを幼い頃に偶然見かけた。
デートをしていたのだと思う。もう男の顔も女の顔も忘れたけれど、ひとつだけ強烈に目に焼きついた光景があった。
男が、女に桜の花びらを食べさせていたのだ。
親指でそっと女の唇を押し開いて、雪の欠片のような白い花びらを口の中に入れた。
女は男の指ごと、花びらを含んだ。
ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。男は花びらを食べた女の肩を抱き、二人は寄り添って歩き去った。
忘れられない。今でも。
「それってさ、」
手塚が幾分呑まれたように声を低めた。
「うん。ラブシーンだったんだと思う。当時は気がつかなかったけれど」
外だからキスできなかった。キスの代わりの行為だったのかもしれない。
今なら分かる。あれは明らかに男女の交愛の場面だった。
「あたし、子供心に桜っておいしいのかなあって、その後ぱくぱく食べてたの。その女の人があまり美味しそうに食べてるように見えたのね」
美味しかったのは、花びらじゃなく相手の指だったのにね。そう言って微笑う。
相槌かなにかあると思いきや、手塚は黙ったままだった。
「手塚? 聞いてる」
まさかもうあんたのほうが眠ってしまったのでは。そう疑うくらいの長い間が空いてから、柴崎の口元にふっと何かが触れた。
手塚の手。
親指が、柴崎の唇の輪郭をなぞる。それはそれはゆっくりと。
柴崎が金縛りにあったように動けなくなる。寝袋の中硬直した。
体重を柴崎に幾分かけるように身を寄せて、手塚はふっくらと程よく隆起した柴崎の唇を指先で確かめる。
官能的なしぐさ。柴崎はなすがままだ。
手塚は柴崎の上唇と下唇の間に、わずか親指を挿し込んだ。そして、
「……食わせてやろうか。俺が」
お前、さくら、好きなんだろうと囁いた。
柴崎は呼吸を止めた。俺のことが好きなんだろう。まるでそう訊かれているようだった。
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書いてる本人でさえですから
みなさますみませんっ(頓死)
極上のラブシーンは傍観者まで酔わせますねv
ちび柴崎が何も分からず桜を食べるシーンも、何やら清謐なエロスが漂ってます。
因みに、おかっぱで想像♪
笑
ドキドキしながら続き待ってます(^w^)
思わず、初コメントしてしまいました(笑)
っつーか手塚!
暗闇に乗じてなに頑張ってんの!
もっといけ~~~~~!(あれ?)
うわぁぁぁぁぁ、どうしようっ!
なんか走り出したい気分だぁぁぁぁぁっ!
動揺させて申し訳ございませんでした。
平にご容赦を…
手塚に別人格降臨でしたね。
落ちは「12」のようになりました。
さくらだより は 特別な思い入れがある話ですので。。。。濃厚なシーンになっているかと思います。
気に入ってくだされば嬉しいです。