月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり――。
昔覚えた古文の出だしをふと思い出した。
タイトルは何ていったっけ。もう作者の名前も出てこない。昔はあんなにスラ
スラ出て来たのに。
無理もない。今はこんな生活だもの。活字なんか週刊誌やネット、携帯くらい
でしか目にしていない。
ねえ柴崎。あんたは変わらず勤めているのね。あの人と一緒に。今も変わらず
あの場所で。
私の事など忘れてしまったかしら。行き交う人間の一人だったと。あるいは、
もう思い出したくもないと強制的に削除した?
ふふ、でもお生憎さま。もうすぐ、嫌でも思い出させてあげるわよ――。
「おはよー!」
官舎の前庭に、小学生達が集団登校の為に集まっていた。いつもの朝の風景で
ある。元気に挨拶を交わす子供が多いのは、親同士も仲が良く、日頃の付き合い
が密である為だろう。
図書隊の子供達は、官舎だけでも結構な人数になり、班が幾つもある。
「おっはよー!」
一際元気な声が聞こえ、手塚晃は振り向いた。ホントは振り向かなくとも誰だ
かちゃんと判っているが。
「おはよう、彩ちゃん」
母親と一緒に階段を降りて来たのは晃より一学年上の二年生、堂上彩だ。
「おはよう」
母親同士が晃と彩の頭上で挨拶を交わした。
「ゴミ出ししなくていいの?」
晃の母、手塚麻子が手ぶらで降りて来た堂上郁に尋ねた。自分はもう抜かりな
くゴミ出しを済ませている。
「あー、新聞取るついでに篤さんが出してくれたから」
「そっか」
にこやかに会話をする母達は、本当に仲が良いなと晃はぼんやり思った。
誰とでも仲がいい母だが、それでも彩の母親は更に別格らしいと晃は子供なが
らに敏感に感じ取っている。
家族ぐるみの付き合いをしているのは、主に手塚、堂上、小牧の三家族だが、
小牧家族は官舎に住んでいないので必然的に手塚家と堂上家が顔を合わす機会が
多くなるのだ。
子供が互いの家に泊まりに行くなどもよくあることで、晃と彩はまるで兄弟の
ように一つの布団で寝たりもする。お互い一人っ子なので、子供同士の温もりを
自然と求め、享受していた。
「彩ちゃんに貸して貰った本、今日帰ったら返すね」
学校までの道すがら、晃が彩を振り返り言った。一年生なので、二年生の彩の
横には並ばないのだ。
「すご~い。もう読んだの? 早いねー。楽しかったでしょ。あれ、お菓子が美
味しそうだよねー」
母親そっくりの口調で彩は言った。そういう顔も母の郁によく似ていて、特殊
部隊の人間からは「プチ笠原」と呼ばれていた。
「いや、鼻の形は俺似なんです」と父親は粘り強く訴えるが、誰も聞いてはくれ
なかった。
彩は性格も母親似で活発なお転婆娘であった。運動神経抜群で駆けっこでは二
年生で一番早い。男子よりも早いのだ。
晃も運動神経は良い方なのだがいかんせん体が小さく、身長は前から数えた方
が早い。なので、体を使った遊びはどうしても彩に遅れを取る。
「でも晃はさあ、パパの背が高いからいいよね」
晃が自分の体が小さいことを嘆いたある日、彩がそう零したことがあった。
「今ちっちゃくても大きくなったら、ちゃんと背が高くなるよ。だってパパがあ
んなにおっきいんだもん。でも、うちはさ」
彩はパパ大好きっ娘だ。大きくなったらパパのお嫁さんになると言って憚らな
い程に。
しかし、そんな彩でも小さな不満を父親に持っている。
それは、最愛の父が手塚や小牧のおじさんに比べて格段に背が低いことであっ
た。
他の子の前では言わないが、幼馴染みの気安さでこっそりと晃にだけはその小
さな不満を彩は打ち明けていた。
「ママがおっきすぎるんだよ。女なんだから、あんなにおっきくなくていいのに。その分パパにあげれば良かったのに」
分け合えるものでもないだろうと晃は思ったが、そう口にすれば更に彩の不満
を煽るような気がして結局黙って聞くしかなかった。
子供はある意味とても残酷だ。
知りそめたばかりながらも、何とか世界を把握しようと覚えたての評価基準で
周囲を計り咀嚼する。
一番普遍的な評価方は可愛い、可愛くない。カッコいい、カッコよくない。こ
れに尽きると言っていい。
物心ついた時から最近の子供は「可愛い」という賛辞を浴びるように与えられ
て育っている。にこやかに笑う親や大人達の表情が嬉しく子供の心に降り注ぎ、
そうして「可愛い=良いこと」と自然に刷り込まれるのだ。
やがてそこに「カッコいい」が加わってくる。
子供達はまず自分達をそれらの基準で分け、周囲の大人も同じように分けて行
く。
うちのクラスの先生は可愛い。あそこのクラスの先生はカッコ悪い。そして当
然、そこには身近にいる親達も含まれる。
無論子供といえどそんな事だけで好悪の感情に大した変化がある訳ではないの
だが、良いに越したことはないという結論は大人も含めた人間全ての本音であろ
う。
上手く行っている家庭の子供の例に漏れず、彩は父である堂上が大好きであっ
た。
肉親の欲目があったとしても、彩は父親のルックスにも満足していた。
子煩悩で家事も積極的にこなす堂上は、周囲の誰もが認める娘命の良き家庭人
である。母である郁も溢れんばかりの愛情を娘に注ぎ、堂上家はとても円満な生
活を営んでいた。
外で遊ぶ際などもこの夫婦はその高い身体能力を存分に発揮し、娘を喜ばせて
いる。
そして、数年前の保育園の運動会で行われた父親徒競走では、彩はこれ以上な
いほどの幸せを味わった。
中年太りの父親も少なくないグループで、堂上はぶっちぎりの一位でゴールし
たのだ。
顔立ちもそこそこ二枚目の堂上がまるでアスリートのように美しいフォームで
小さなトラックを駆け抜けると、見知らぬ母親達や男性陣まで歓声を上げていた。
勿論郁と彩の声援には遠く及ばなかったが。
「やったーーー!!!!」
一位になったことを母娘で手を取り合い飛び上がって喜んだ。
(パパ、カッコいい!)
彩の胸は誇らしくて張り裂けそうであった。
(どう? カッコいいでしょう、うちのパパ!)
同級生達にも「彩ちゃんパパ、すごくカッコいいね」と誉められ気分は最高で
あった。
だが、その気分が害されたのはそれから五分後の事。
うわあーと、先程堂上が走った際に起きたのと同じほどの歓声が園内に木霊し
た。
「手塚のおじさんだよ」
母に教えられるまでもなく、彩にもそれは判った。
堂上と同じく、いや、背が高い分もっとスマートに映る走りで晃の父親はトラ
ックを駆けて行った。無論一位だ。
「ムキになっちゃって」
くすくすと笑う晃の母は「何にも変わったことなど無い」と言っているかのよ
うに見えた。大騒ぎした自分達が何だか馬鹿みたいで、彩はぺしょんと凹んでし
まう。
「六馬身差はあったねー」
あははと笑う郁は、娘の表情が変わったことに気付かなかった。
そして。
トラック中央には、順位を表す旗に並んだ父親達が待機していた。
一位の列に、何人かを挟んで並んだ二人が談笑していた。
(………)
彩は愕然とした。
父は頭一つ分も背丈が低かった。
勿論手塚のおじさんが背の高い人だとは知っていたが何故だか初めて知らされ
たような気分になり、彩は言い様のないショックを感じてしまったのだ。
(そう言えば、小牧のおじさんよりも低かったんだよね)
彩は、殆どべそをかきたいような気分になってしまった。
そんなことで父親を嫌ったり、手塚や小牧を憎たらしく思うことも無かったが、この日感じた無念はいつまで小さな棘として彩の心に残ってしまったのだ。
パパはカッコいい。
でも、もっと背が高ければ良かったのにな…。
歓声が聞こえ晃が校庭に目をやると、体育の授業が行われていた。
徒競走をやっている。
スタートライン横に立っているのは彩の先生。つまり、彩のクラスだ。
彩ちゃんはもう走ったのかなと横目で眺めていると、何やら先生が指示を出し
て児童を何人か集めていた。
スタートラインに5人程の男子に混じって紺色のショートパンツが一人、すな
わち女子が一人だけ整列している。
彩だ。
男子と並んでも背の高い彩が、笛の音と共に素早く飛び出した。
横並びだったのは中盤位までで、その後は彩の独壇場だ。
まるで宙を飛ぶように軽やかに走り一位になった。
(すごいなあ、彩ちゃん)
僕もいつか、彩ちゃんと同じ位に早く走れるようになるのかな。パパみたいに
おっきくなって。
でもさ、彩ちゃん。
僕んちママが小さいんだよね。
男の子だからって、パパに似るとは決まってないんだよね…。
事実、晃は母の麻子にそっくりであった。
その美貌、可愛らしさ故に晃はしょっちゅう女の子に間違えられていた。
見知らぬ人に「可愛いお嬢さんだこと」と誉められても、憮然としてそっぽを
向くしかない。違うよ男だよと大きな声で文句を言いたいが、人見知りの強い性
格の為に、いつもその思いは言葉にならない。
しかしその胸には根強い反感と、自分は男であるという強い自負が渦巻いてい
る。
背が高く逞しい父親を理想に思い、いつかは自分もあのようになりたいと強く
願っているが、母譲りの華奢な体はクラスで前から3番目だ。
堂上家でご飯を食べたりする時など彩に負けじと頑張ってかき込むが、元々食
が細い質なのでいつも負けっぱなしである。
(彩ちゃんには追い付けないのかな…)
カリカリと漢字の書き取りを真面目にこなしながら、晃は小さな溜め息を零し
た。
その日、武蔵野第一図書館は休館日であった。 白い軽自動車をゆっくり操り
ながら、その女は門扉に下がった休館の案内をその目で確かめた。
休館と言っても全職員が休んでいる訳でないのは、元職員だったおかげで女が
よく知っている事情だ。
ターゲットがいまでも勤務している事は、既に確認済みだ。
順調以上に出世し、業務部にも拘わらず一正になっていた。
(この年で一正なんて、普通じゃ絶対有り得ない。どうせ上司に色目使ったりと
かしたに決まってる。あの人もいい面の皮よね。ひょっとしたら子供の父親だっ
て違う男かも。あの女ならやりかねない。手塚さん、あなたってホント、女を見
る目が無かったわね)
ぶつぶつと呟きながら、女――水島久美子は、アクセルを踏み、目的地へと走
らせた。
ちらほら子供が歩いて来るのを、エンジンをかけたままの車内で水島は蛇のよ
うな目で見つめていた。
校門からすぐ脇のこの道は車の通りも殆どない。そして午後二時を過ぎたばか
りのこの時間帯は、更に人出も少ない。
朝の登校時は、集団登校や信号でボランティアをするPTAなどの人目がある。
二学期も半ばのこの次期、新入生達の下校も班行動ではなく個人個人バラバラ
だ。
昨今は子供の誘拐などを警戒して全国各地で町会ボランティアがパトロールな
どを実践しているが、くまなく全ての時間帯にいる訳ではない。万が一パトロー
ル隊と例の子供の下校がバッティングしてしまったら、別のチャンスを伺えばい
いだけだ。
時間はたっぷりある。 刑務所のように、自分を追い立てるスケジュールはも
う何一つ無い。
場所を変えながらこうして待つのも二日目になるが、水島は不思議と苛つかな
かった。その間は楽しい想像で時間を潰していたからだ。
あの女が、二度と職場に戻れぬようになると思うと楽しくて仕方ない。それだ
けでなく、上手くやれば実家にすら出入り出来ないようになるかもしれない。自
分と同じく。
「離婚沙汰になっちゃうかもねえ」
くすくすと声に出して水島が笑った時、その子供が目に入って来た。
華奢な体に大きな黒いランドセルを背負い、独りで歩いてくる。
丹念に下調べをして探し当てた手塚家の一人息子、晃。
しめた! 周りには誰もいない。
水島は、慎重に手許の瓶からハンカチに薬品を染み込ませた。準備完了。
息を詰めてドアを開けようとした手がビクリと止まった。
子供が後ろを振り返ったのだ。少女が駆けて来る。
「晃ー! 一緒に帰ろう~」
「彩ちゃん」
チッ。
水島は舌打ちした。いくら大きく構えていても、このような絶好のチャンスを
邪魔されてはやはり腹が立つ。薬だって出したのに。
すると、もう一人少女が登場した。遠くから何やら叫んでいる。
「彩ちゃーん。鉄棒のところに笛忘れてないー?」
「ああっ! いっけねー。さっき遊んだ時に落とした!」
ランドセル脇に笛が無いのを確かめ彩は叫んだ。次の瞬間にはもう学校へ駆け
戻りながら、晃に振り向き大声を出す。
「先行ってて! 走って取ってくるからー!」
走らなくてもいいのにと思ったが、弾丸のように去って行く彩に伝える術もな
く、晃は仕方なしに再び歩き出した。
きっとどうせ、彩はすぐに追い着いてくる。
どれくらいで追い着くのかな。塀が終わるあそこまでなら彩ちゃんはオリンピ
ック選手。向こうの電柱までにだったら、特殊部隊になれる。
「こんにちは。手塚君」
ぼんやりとそんな夢想に耽っていた晃は突然声を掛けられ、びっくりして顔を
上げた。
声を掛けて来たのは、大人の女だった。
誰だっけ。知ってる人だっけ?
不審げに自分を大きな瞳で見つめる晃に、水島は白々しく笑い掛けた。
「もう忘れちゃった? 鈴木君のお母さんよ。今日、手塚君とどうしても遊びた
いって言うから、迎えに来たの」
(…鈴木君のお母さん?)
鈴木というクラスメイトは確かにいた。翔竜という勇ましい名の男の子で、晃
も何度か遊んだことがある。
(でも鈴木君の家に行ったことない。それなのにお母さん、僕の顔知ってるの?
)
(知らない人について行っちゃだめよ)
晃の脳裏に母親の注意が蘇った。
それと共に警戒心が働き出す。
(私達に頼まれたとか言って、あんたをどっかに連れて行こうとする知らない大
人は間違いなく悪い人だからね。よく覚えておいて。もしホントに急用があって
あんたの迎えを誰かに頼む事があっても、その時は必ずあんたがよく知ってる人
に頼むから。堂上さんちとか、小牧さんちとか、あるいは官舎のご近所さんとか。だから知らない人の言う事は絶対聞いちゃダメよ)
「やだなあ。こないだスーパーでママとお話したじゃない。忘れちゃった?」
そうだっけ? ママは色んな人とお話するからよく覚えていない。
どうしよう。ホントに鈴木君のお母さんだったら一緒に行かないと悪いかな。
でも、何か変な気がする…。
晃がそっと後ずさろうとした時、ふぁさりと何かが女から落ちた。
(ハンカチ)
反射的に晃は屈んでハンカチを拾ってやった。はい、と差し出す。
「有難う。いい子ね」
そのハンカチで女はいきなり晃の顔を覆った。
やめて!
そう叫んだつもりの晃の体から、ゆっくり力が抜けて行った――。
(まーたママに叱られちゃうとこだったー。唯ちゃんに教えて貰って良かった。
今日はラッキーデーだ。晃はどこまで行ったかな?)
がっしょがっしょと五月蠅いランドセルを背負って、彩は小走りに帰り道を駆
け戻った。
ランドセルから手足が生えているような、晃の小さな背中を捜す。
(あれ?)
まだ塀の先にいるものと思っていた晃がどこにもいなかった。
足を止めずに首を巡らした彩の視界に、その異変は飛び込んで来た。
道の端に停めてある白い車に、女の人が小さな男の子を乗せようとしていた。
違う。
くったりと力なく二つに体を折った男の子の腹の辺りを抱えて、女が車に押し
込んでいるのだ。
(…晃?)
小さい体に似合わぬ大きな靴。あれはうちからの誕生日プレゼント。あたしが
選んだ青い運動靴。
(足のサイズ、彩ちゃんと一緒だね)
嬉しそうに笑った晃はそれから毎日履いている。
「晃ーーー!!!」
自分でも驚くほどの大声で彩は叫んだ。意識せずとも走るスピードが上がった。
女はぎょっとしたように振り返ったが、その後素早く運転席に回り込み、車を
発進させてしまった。
(晃っ!)
男子と駆けるよりもっと速く彩は全力でその後を追った。
その日、手塚麻子は館内業務をこなしていた。
平日ではこなし切れない整理の為に、月に二度程定休日以外の休みを図書館は
設けている。
出勤するのは職員の半数ほどで、シフトを組んで遣り繰りしていた。
開館日は、息子の晃は学校から帰って来ると大概図書館に直行していた。児童
書のコーナーで大人しく本を読んだり、あるいは庭で友達と遊んだりして過ごし、業務が終わった父母のどちらかと一緒に帰宅するのが常であった。
友達と遊びに行くときは、自分か夫に携帯で連絡を寄越すように言ってある。
晃が携帯を持つ事で、郁の娘が自分も欲しいと駄々を捏ねて一悶着あったらし
いが、すまながる麻子に郁は「うちはまだ早いから気にしないで。これはそれぞ
れの家庭の方針だからさ」と告げ、後ろめたさを軽減してくれたものだ。
その後堂上家では夫婦揃って娘を説得し、きちんと納得させたという。但し、
ディズニーランド一泊とのバーターであったという。
それを知った麻子はニヤニヤと笑ってしまった。郁の娘は母よりしっかり者な
のか、それとも堂上の溺愛故かを夫の光と話をしたところ、夫婦揃って『後者で
あろう』と一致した。
「今日はどうする、晃?」
夫も勤務日だったので、二人とも不在だ。そんな日は図書館の庭で遊ばせたり
もするが、本好きの息子は「家で本読んでる」と、外に出ない事も多い。
今朝の見送りの際、そんなやり取りを晃としたところ、郁が声をかけてきた。
「今日はあたしも篤さんも休みだから、晃君うちへおいでよ。夕食多めに作っと
くから、あんた達も仕事終わったらおいでよ」
「有難う。そうさせて貰うわ」
フロアは違うとは言え、気心の知れた親友夫妻が同じ官舎内にいることはこう
いう時にとても有り難い。子供がいながら仕事を続けるとなると、周囲の手助け
が本当に頼りだと麻子は母親になって実感していた。
ましてその相手が堂上夫妻なのだ。
夫婦のどちらもが腹から信頼出来る家族が身近にいるなど、これ以上の住環境
は無いだろう。無論それは持ちつ持たれつの関係で手塚家、堂上家は助け合って
今まで来ていた。
(あとは、もう少し官舎が新しければ言うことないんだけどねー)
建設されて二十年近い官舎は、正直に言えば完全に時代遅れな造りであった。
風呂炊きも自動ではなく、タイマーをセットしなくてはならない。
乾燥機能が着いた風呂が主流になりつつある現在、雨が続くと部屋を占拠する
洗濯物にうんざりしてしまう。
行く行くは家を買おうと夫婦で話はしてはいるが、資金を貯めることぐらいし
か実行していなかった。
特殊部隊勤務の光の便というものもあるが、一番のネックは手塚の実家であっ
た。
都内に豪邸を構える手塚家は、ここ武蔵野第一図書館の通勤圏内ではあったが、両親が健在ということもあり一緒に住む選択肢は結婚当初から無かった。
しかし年老いてゆく親にいつまでも知らん顔は出来ないだろう。遠くに住んで
いるのならばともかく、こんなに近くにいるなら尚更だ。
本当は義兄の慧が家に戻り後を継ぐのが理想だが、和解をしたとは言えまだそ
ういう話は無いそうだ。
未だに独身でもある義兄が一緒に住んだとて、老いた両親が安泰であるとも正
直言い難い。
「お兄さんは結婚しないんですか?」
晃が生まれて以降意外なほどの『伯父馬鹿ぶり』を見せる慧に、麻子はそう尋
ねたことがある。
「そんなに子供が好きなら、きっと幸せなご家庭が築けますよ?」
一割位はまだ腹の探り合いをしている相手に、それでもその時は純粋な気持ち
で麻子は訊いてみた。義兄が、沢山の人間を集めながら孤独な人生を送っている
ことは感じていた。だからあれほど弟に執着したのだ。
「目をつけていた女性が結婚してしまったからねえ。それ以来なかなかこれとい
う人に出会わなくてね」
「ふざけた事言ってると、出入り禁止にすんぞ」
思い切り仏頂面で蹴りを繰り出すフリをしながら、それでも兄にお茶を出した
のは他でもない夫の光であった。
幼子のもみじのような手をあやしながらゆったりと微笑む兄に昔の遺恨は殆ど
感じず、また、自分が不在の時には決して訪ねて来ないこともちゃんと承知して
いたからだ。
(お兄さんが結婚してあの家に住んでくれたら一番なのよねえ。そしたらうちは
この近所にマンションでも買ってさ)
年を取ると色々重たくなってくるわねと軽く溜め息を吐いた時、ポケットに入
れた携帯が振動した。
表示は『晃』。
電話の着信ランプが点滅している。
「もしもし、晃? もう家に着いたの?」
何の疑いもなく麻子はそう口にした。
しかし、返って来たのは息子の声ではなかった。
「お久し振り柴崎さん。ああ、もう手塚さんだっけ?」
足下から、冷たい風が麻子の体を一気に駆け抜けて行った――。
「懐かしいわね。何年振りかしら?」
受話器から聞こえてくる声を一言も聞き逃すまいと、麻子は必死で激情を抑え
た。
声の主は水島久美子。
私をあんな目に合わせ、懲役刑を食らった女。
その女が息子の電話機を使っている。含み笑いを隠した声音で。
答えはひとつしか浮かばない。
息子は今、水島の手の中にある。
(晃…ッ)
ガクガク笑う膝を抑えることを諦め、麻子は膝を着いてしゃがみ込んだ。
声だけは死んでも震わせてはならない。水島に隙を見せてはならない。絶対に。
プライドなどではなく、ただ息子の為に。
(晃…!)
「お久し振りね水島さん。私が結婚したって、よく知ってるわね――」
麻子と光の、そして特殊部隊の、長い一日がこうして始まった――。
幽鬼のように青褪めた妻が特殊部隊の事務室に入って来た時、手塚は瞬時に立
ち上がった。
「どうした」
慌てて駆け寄り、その顔を覗き込む。
爛々と光る目で夫を見据え、麻子は簡潔に説明した。
「晃が、水島久美子に誘拐された」
がくりとその膝が崩れ、倒れる寸前に夫の腕に抱き留められた――。
☆2へ続く☆
web拍手を送る
うおぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!
スウィート×3な『クリスマス大作戦』の余韻も覚めやらぬうちに突如始まった謎の連載に、さぞや驚かれたことでしょう(ごめんなさい~~~★)。
しかも、こんなネタだし…★★★
力作連載を終えられた巨匠のインターバルに、暫くはお邪魔することになりますです(占拠とも言う)。
こちらにお越しの皆様に、次なる最高級スウィート作品をより美味しく味わって頂く役を少しでも果たせたらいいな、と…(苦くてしょっぱい話なんですよ、これが)。
萌え度は限り無くゼロに近いですが、取り敢えず主要キャラは出て参ります(←唯一のウリがこれ・泣)。
もしよろしければ、どうかお付き合い下さいませm(__)m
いえ、あまりの展開にずりずりと引き込まれ、蟻地獄のようです…
ええええ、とことんまでついていきます!
私も時折(爆)手柴を書いています。もしよろしければ、遊びにでもきてくださいね。
それにしても、どきどきだ…
ご挨拶が遅れましたが、実はもうとっくにたくねこさんのお宅にこっそりお邪魔しておりますですv
今回のこのジュニア達の話も、たくねこさんが書かれている元気なちびっこ達に触発された部分もあったりします~♪
次世代ってのもそそられますよねv
あ、主要キャラ勢揃いと書きましたが実は鞠江ちゃんは出番ナシです。もし期待されてましたらごめんなさい★
その代わり(?)と言ってはなんですが、柴崎の出番は一杯あります!武闘派ではない柴崎の、それでも息子の為に全力を尽くして闘う姿をとくとご覧下さいませ☆←こ、こんな風呂敷広げて大丈夫か、自分(汗)。