【9】へ
柴崎が髪を解くと、花の香りがした。
狭いテントの中、ふわりと広がり闇に溶ける。
一瞬のこと。でも、手塚の心を騒がせるのには十分で。
息苦しさを覚える。でも、それは胸が苦しいのだとすぐに気がつく。
手塚はまばたきもできず、柴崎の姿を見つめる。
目が離せない。目を離した隙に、消えてしまいそうな気がする。
そのくらい今宵の柴崎の居ずまいははかない。
「……くせがついちゃった」
毛先をつまんでひと房掬い上げる。シャンプーした後に結んだからという意味だろう。けれども手塚の目にはまったくくせなどついていないように見える。
しなやかな黒髪は闇をまとって更に輝きを増す。
手塚が何も言わないので、柴崎はちょっと困ったように肩をそびやかした。
「さてと、どうする?」
膝と膝が触れ合いそうな近さ。テントのサイズはあくまでも一人用だ。
そこに二人が入ると、必然、距離が狭まる。
単なる同期、同僚の域を割って「恋人空間」まで入り込むことになってしまう。
「あ、ああ」
手塚は手近に丸めておいた寝袋を掴んだ。柴崎に渡す。
「これ使えよ。俺ので悪いけど」
「あたしがこれを使ったら、あんたは?」
どこを見ても、一組しかない。
「俺は毛布でいい。毛布は二枚支給されているから」
柴崎は顔をしかめた。
「そんなの、風邪引くわ」
「春だから大丈夫だよ」
言いながら更に毛布を渡す。
もこもこと柴崎の膝の上が温かくなる。でも、尻や背中のあたりから忍び寄る寒さはいかんともしがたい。しんしんと冷えが身体を覆う。
いくら防風防寒対策の隊用テントの中とはいえ、北国の地はこの季節になっても朝晩はぐんと冷え込む。
海岸沿いのこの地はなおさら。
「春っていったって、こんなに冷えるじゃない」
柴崎は自分の身を抱くようなしぐさを見せた。
自分用の寝袋や荷物は、避難所に置いたままだ。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったので、向こうにある。
「寒いか。俺のも使え」
下にも敷くといいと手塚はもう一枚柴崎の膝に重ねた。
「でも、あんたのは」
「俺は大丈夫だって。普段鍛えてるから」
「そんな」
いくら鍛えてるからってあんた。そう言い返そうとした柴崎を手塚が遮る。
「ちょっと向こう向いてろ。着替えるから」
「え」
さっさと服を脱ぎだすので、慌てて柴崎はテント入り口のほうに身体ごと向けた。
……なんとも予想外の展開になったものね。
背後の着替えの気配を感じつつ、柴崎はひとりごちる。
自分が今手塚の寝床にいるという事実が信じられない。現実のことではない気がしている。
月の光を背負いながら、引き返そうと言った彼の声は、ついさっきのことのようにリアルに思い出せるのに。今息を潜めて服を着替える手塚はまるでふわふわと手ごたえのない存在のように思えた。
あたし、どうしちゃったんだろう。
こんなことするなんて。普段は絶対ありえない。
誘われるまま、男のところに転がり込むとか。……切り出されたときのニュアンスは微妙に違うが、簡単にまとめてしまえば今の自分たちの状況はそういうところに落ち着く。
もしもほかの隊員にばれたら。もう言い訳できない。
手塚だって懲罰対象になってしまう。まずいことになるのは必至。
それを誰よりも手塚が分かっているくせに。なのに彼はあたしを誘った。
帰したくない。あの時、全身全霊でそう伝えてた。
……ほだされちゃった? あたしともあろう者が。
柴崎さんほどの女が。たった一言で落ちたというの。
「泊まっていけよ」
低い声。甘い呪縛。
首の後ろの辺りが、かすかに痺れた。あの時。
身動きできなくなった。頷くことも。呼吸もできない。
その場に凍りついたように立ち尽くすしかなかった。
手塚は、言った自分自身に戸惑っている顔をしていた。すぐに目を逸らし、今来た道を戻り始めた。
あたしが体育館と彼と交互に見つめていると、数歩先で「柴崎」と呼んだ。
それに引き寄せられあたしは彼に向かってふらりと歩き出した。
桜の花びらに追い立てられるみたいに。
柴崎はうず高く膝上に積まれた寝袋と毛布を持て余す。
……もう。
自分のことなんか全然考えちゃいないんだから。
こんな冷え込みなのに。寝袋も毛布も要らない訳ないじゃない。いくら鍛えてるからって、どこぞのマシンじゃないんだから。
ばか。
「もういいぞ」
声がして振り向くと、手塚がジャージの上下に着替え終わっていた。寮でよく着ていた、見慣れたものだ。
柴崎は膝をまた彼に向けながら、柴崎は言った。
「パジャマがわり? 色気ないわね、お互い」
自分もジャージ姿だ。お世辞にもロマンティックとは言いがたい。
「まあな」
手塚も苦笑を漏らす。
「すっぴんも、見られちゃったな」
あんたにも、特殊部隊班にも。そう呟くと、手塚は意外そうに目を瞠った。
「いつも見てるだろ。寮で」
「寮のときはちょっとは化粧してるもん。パウダーに口紅ぐらいは。それにお風呂上りは部屋から出ないようにしてるし」
だからレアなのよ。あたしのすっぴんは。言って唇をちょっと尖らす。
「全然変わらないから分からない」
本心だった。しかし柴崎はじろりと手塚を目で掬って、
「褒め言葉よね、それ」
と念を押す。
「当たり前だろ」
「あたしのすっぴん、高いんだけどなあ。恋人にしか今まで見せたことないのに。今日は大安売りね」
柴崎は冗談めかして笑った。
手塚はふ、と目を逸らす。
艶かしい想像をしてしまった。
柴崎の言葉の裏に、男を感じた。彼女が素顔を見せるときというのはきっと、肌と肌を重ね合わせるひとときのことなのだろう。恋人同士の時間。
紅を挿していないのに、柴崎の唇はほんのりとピンク色だ。つややかな光をまとっている。
かつてこの唇に三度ほど触れた。そのことがなんだか遠く思えた。
形のよい唇も、白い肌も、手を伸ばせばすぐ触れられるところにある。なのに、それだけに遠い。
「ライト、消すぞ。点呼は済んでるが、明かりをつけてると起きてると思って誰かが声をかけてくるとも限らないから」
手塚は言って、ラジオとライトが一体型となったもののスイッチを押した。
柴崎が頷くと、ふ、と視界が黒く反転した。いっきに闇が濃度を増す。
夜がテントに入り込む。二人は沈黙を手繰り寄せる。
映画館に似てる。手塚はそんなことをふと思う。
ずっと前から観たかった映画の本編が始まったときのような、期待が高まりしわぶきひとつできないような。あのときに似ていると手塚は思った。
息が詰まりそうだ。
「……寝もう」
ごろりと横になる。さすがに冷えるが、いつもより一枚多く着込んだし、大丈夫だろう。
「うん……」
柴崎は、毛布を手塚に向けて押し出した。
「これ、使ってよ」
「いいよ。お前が使え」
「いやよ」
柴崎は固辞する。
「あんたが使わないならあたしも使わない」
「……お前なあ」
手塚が上体を起こす。視界はほとんど利かないが、柴崎のシルエットは辛うじて認めることができる。
「風邪引かせる訳にはいかないんだよ。風呂上りだろ」
噛んで含めるように言う。でも柴崎は首を振った。
「あんたの毛布や寝袋全部借りてまで引かない義理はないわ」
「なんだその理屈。いいから包まって寝ろよ。言い合いしてたら周りに勘付かれちまう」
今だって可能な限り声を絞っている。柴崎もそれは気にしてか声のトーンを幾分落とした。
「いや。寝ない」
つんとそっぽを向く。気配で分かる。
「柴崎」
柴崎は焦れていた。ったくこの男はもう。
俺がお前ごとあっためてやるよ。――そう言ってくれればいいのに。
どうして気が回らないの。。
そこまで考えて、自爆しそうになる。
あ、あたしって過激? でも、
でも、……だって。
柴崎は唇を噛んだ。
あたしから言わせたいのか。
そう意図してる訳じゃないなら、天然なのだとしたら、こいつってば手ごわいわ。
最高に。
柴崎はひとつ息を吸ってから言った。
「一緒に使って。添い寝してよ。だったら寝る」
梃子でも動く気はなかった。ビタ一文譲らない。
この上なくおかしな表現だったが、柴崎は真剣だった。
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