詩人あるいは舞台芸術家として寺山修司が健在の頃、「山岡不正騎乗事件」について自著「馬敗れて草原あり」のなかで別項のように触れている・・・・
その事件から20年近く経過した時点でも、地方競馬では「そのスジの偉いさん」とその取り巻きがスタンドに陣取りノミ行為や不正行為もどきの指揮をしていたと、山口瞳は「草競馬放浪記」のなかで触れている。
浦和などでも多かったらしい。
さすがにネット売り上げ隆盛の今は激減したもようだが、フェアなレースは確立してほしいものです。
八百長との出会い・・・ 「馬敗れて草原あり」より
昭和40年の2月14日、第一回東京の第8レースでカブトシローにのった山岡騎手は落馬した。
4コーナーをまがったところで、何かに躓いて、スローモーションの映画のように手綱をつかんだまま転げ落ちると、ダートコースの砂塵が巻き上がった。レースは逃げていたショウフウがいっぱいになったところへ人気のクルシマとサンキュウプリンスが強襲してきて直線で壮烈な叩き合いになり、スタンドは騒然となってデッドヒートに目をやった。だから。スタートから後段のままで。しかも落馬してしまったカブトシローのことなど、誰も、ほとんど印象に残してはいなかったのである。サンキュウプリンスの関口薫はレース後、「好位についていき、直線でも良くのびてくれたのですが、クルシマの脚が予想外に速すぎたので負けました」と語っていた。
それから3週後、同じ1700メートルのダートコースの、50万下注1のたちばな賞レースで〔クルシマの勝ち上がったあとだけに〕サンキュウプリンスが本命に推されたのは、当然のことであった。前回落馬したカブトシローは、予想紙ではほとんど問題外とされ、クルシマ、アドミラルと2戦続けて50万下の特別レースに2着したサンキュウプリンスが各紙の本命、つづくアオバもチャイナロック子でダート得意と、保田の騎乗で対抗人気となっていた。ところが、当日のトータライザー注2を見て、私は意外なことを発見したのである。急遽予定変更してでてきたマブハイがいちばんの売れ行きで、続いてアオバ、エイザンの順になっている。サンキュウプリンスのいる3枠はまるで売れていないのである。
「変だな」私はつぶやいた。なぜ、マブハイが完調でないのに出てきたのかわからぬし、サンキュウプリンスが関口薫から中沢に変わったのかもわからない。それに、50万下レースにしては4―8という組み合わせだけが一ケタ多く、他が人気薄すぎるのも変である。前回落馬したカブトシローがこの年に入って未勝利なのにサンキュウプリンスと差のない人気というのも、おかしかった。私は、カブトシローの単勝を買い、群集の中で望遠鏡をかまえてレースを見守っていた。ゲートがあくと、まずとびだしたのは、以外にもそのカブトシローだった。ハナを叩かれた、久々のマブハイが2番手で、加賀の手綱が動いている。フクマサ、エイザンという順で、アオバは大きくたちおくれて最後方、サンキュウプリンスは中団のままであった。テンのペースが11秒2、11秒7とこのクラスにしては異常に速いのも、山岡の「何が何でも行く」という一種の攪乱先方としか思えなかった。
3コーナーから4コーナーへかけてマブハイがおくれだし、フクマサ、エイザンが2.3馬身差でカブトシローに続いて行き、アオバは最後方、サンキュウプリンスはまつたくの馬なりである。ペースは少しずつ落ち始め12秒台から13秒台、保田の手が動く。アオバがムチを使う。しかし、届きそうもない。
レースはカブトシローが上がり38秒でからくも逃げ切り、2着には2馬身差でアオバがとびこんできた。サンキュウプリンスはいいところなく惨敗し、マブハイも久々で息がもたず、1―8という穴ながら、配当は1610円注3。「小波乱」というかたちで終わった。よくあるレースにすぎなかった。しかし、これが有名な山岡事件と呼ばれる。戦後最大の八百長レースだつたのである。山岡はヤクザと組んで中沢を饗応し、本命のサンキュウプリンスを「引っは゜る」ように頼んだ。さらに、そのサンキュウプリンスをのり渡した関口薫も一口のっていて、紅顔の少年騎手中沢は、背広をもらっただけではなく、八百長を渋りだしたたために傷害を加えられた。という「真相」までがあばかれて、連座した三人の騎手はそれぞれ処分された。山岡も中沢も、競馬場を去ってゆくことになり、ファンはそれぞれ、たちばな賞のレース展開を思い出した。あのレースが八百長だったのかどうか、それはいまでも謎になっている。
ただ、カブトシローにとっては、多くの「不運」の因となったみのたとばな賞が、はじめての特別レース勝だったことを忘れるわけにはいかないだろう。
注1 当時の1勝クラス
注2 当時オッズ板はなく、票数のみ数分おきに表示、場外締め切りでどっと加算された。
注3 当時は単・複・枠連の3種類のみ