部屋に居てもネットするかTVを見るかで、折角のいい天気がもったいない。
以前から観たい、観たいと思いつつ果たせなかった、
法華寺の国宝十一面観音像を拝観に行ってきました。
聖武天皇御願の日本総国分寺の東大寺、
光明皇后御願の日本総国分尼寺の法華寺。
元は藤原不比等の邸宅であったのを、皇后が伽藍としたと言われています。
一頃は荘厳の限りをつくしていたらしいですが、
今はそれを思出ださせるような建造物は残っていません。
やじの家から自転車でほんの五分のところにありますが、
このご本尊十一面観音像は決められた時期しか開扉されていないので、
今まで拝観したことがなかったんです。
でもネットで今拝観できると知り、自転車で行ってきました。
入り口を入ると、左側に鐘楼が見えてきます。
この鐘楼は重文。
桃山時代の再建らしいです。
最後の写真の右側に移っているのが本堂です。
本堂も重文で、これまた桃山時代に再建されています。
豊臣秀頼(秀吉の息子)と淀君が再建したらしいです。
この本堂の中に、厨子に納められた十一面観音立像があります。
和辻哲郎氏の「古寺巡礼」や、土門拳の「古寺を訪ねて」にも出てくる観音立像です。
和辻氏はこの観音様をこのように評しています。
法華寺の本尊十一面観音は二尺何寸かのあまり大きくない木彫である。幽かな燈明に照らされた暗い厨子のなかをおずおずとのぞき込むと、香の煙で黒くすすけた像の中から、まずその光った眼と朱の唇とがわれわれに飛びついて来る。豊艶な顔ではあるが、何となく物すごい。この最初の印象のためか、この観音は何となく「秘密」めいた雰囲気に包まれているように感ぜられた。胸にもり上がった女らしい乳房。胴体の豊満な肉づけ。そのあわらかさ、しなやかさ。さらにまた奇妙に長い右腕の円さ。腕の先の腕環をはめたあたりから天衣をつまんだふくよかな指に移って行く間の特殊なふくらみ。それは実に鮮やかに、また鋭く刻み出されているのであるが、しかしその美しさは、天平の観音のいずれにも見られないような一種隠微な蟲惑力を印象するのである。
このあと、彼は勧心寺(大阪府河内長野市)の如意輪観音と比べ、この像の魅力を語っています。
また、「鹿鳴集」に多くの奈良の短歌を詠んだ会津八一(秋艸道人)はこの観音について、次のような歌を詠んでいます。
ふぢはら の おほき きさき を うつしみ に
あひみる ごとく あかき きちびる
境内に彼の歌碑がありました。
本堂の前には沢山の花が咲いていました。
木蓮の後ろに見えているのが、法華寺の南門。これまた桃山時代に建立された、重文です。
寺の中は落ち着いていて、人も少なく、本当に雰囲気の良いお寺です。
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