昭和20年、春。戦火の東京を離れ一人汽車で信州へ向かう若者の男子が居た。旧高等師範学校3年の、剛。まだ寒さで残る3月。
伊那谷最北の辰野駅を出ると、汽車はちらほらした、梅を見ながら小さな山あいを走った。
長い分水嶺のトンネルを抜けると、汽車は松本盆地ふ向けて下り始める。天竜川水系と信濃川水系の境目だった。剛は信濃の国に入ったのだ。
この時期米軍の東京空襲が始まりもはや日本の首都は危険であった。松本盆地は帝国陸軍もあり
安全に勉強出来る地であった。
下り切ると塩尻駅。遠く雪で白い穂高連峰が見える。この辺りで標高は、700メートル、雪は無いが東京よりまだ寒い。少し鼻水をすする、
汽車は中央本線から、篠ノ井線に入る。貨物列車とやたらとすれ違いながら、北アルプスの眺めが良い農村の中を走る。
塩尻から、みっつ程行くと、帝国陸軍がある、広い貨物駅の南松本駅。
ここで剛は、汽車を降りた。先程と違い、アルプスと逆方向には、美ヶ原高原の雪が残る山が畑の向こうに見える。
3月だが風は冷たい。
線路を渡り、小さな木造駅舎を抜けてみると、剛は、なるほどこれがいい、と思った。
畑の中をアルプスに向けて伸びるあぜ道、まばらな民家、たまに通る軍用車両。東京とは、別世界だった。東京の下町で生まれ育ち硬派な江戸っ子の父、山の手の母に育てられた、真面目だけど不器用な少年。この信濃の風景は触れた事の無いものであった。
予定では、この近くの宮田という村落で自転車工場で働きながらお世話になる予定だった。
松本盆地は、水が豊富で、湧水や水路が多い。
このあぜ道も左に農耕用の狭い水路がある。
駅から、数百メートル行っただろうか、この水路に自転車ごと落ちている人が居た。
見ると、この近くの人間だろうか?剛と同じくらいの娘であった。
剛は水路に飛び込み、自転車と娘を引き上げた。
ありがとうございます、自転車大きくて足つかなくて
止まったら落ちてしまったの。
大丈夫か?ケガはないか?
東京で同じ年齢ぐらいの娘はたくさん見ているが、剛が初めて見る信濃の娘は、頬が赤かった。
そうだ!宮田って近くかな?
宮田、私の住んでるとこです。
俺、剛、東京から疎開で来た師範学校3年の17。
私は、里美、宮田の乾物屋の娘、松本の女学校行ってる、16。ほとんど歳一緒ですね。
宮田の村落は、駅からあぜ道を歩いて、20分も掛からなかった。
古い旧街道、塩の道のすぐ脇の農村であった。
農村には似合わない、自転車の工場が、ぽつんとあった。
私の家はそこの乾物屋です。年近いし同じ村民だから、剛君って呼んでいいですか?
もちろんだよ、里美ちゃん。
田舎の生活は、朝早く夜早かったが、のんびりな毎日であった。
信濃の桜は咲くのが遅く、散るのも早かった。桜も散った頃。里美が剛の寄宿舎を訪れた。
剛君、これどうぞ。
タラの芽やふきのとうをたくさん持って来た。
この辺の家はみんな本業以外に農家や山菜採りしてから。
もし、勉強の邪魔じゃ無かったら、村の中案内するからお散歩しません?
ありがとう、行こう行こう。
あの三角の大きな雪山すごいね。
あれは、アルプスの常念岳よ。
ここが、私が出た尋常小学校。
この辺は、松本の街まで遠いから、木登りしたり川で遊んだりしてたの。
いいなあ。東京なんか、そんな場所ないぜ。
宮田からは、乗鞍岳や槍ヶ岳は見えず、木祖村との境目にある丸い山、鉢盛山に夕日か沈んだ。
生まれた時から、信濃の美しい風景を見てきた、里美の黒目に信濃の夕日が映っていた。
夏になると、りんごの花が咲き始めて、神社の大きなお祭りがあるの。剛君一緒に行ってね。
剛の心で、子供時代の友達とも、親兄弟に対してとも違う感情が生まれ始めたが、まだそれが何だかは自分でも分からなかった。
剛が信濃に来て半年近く経ち、日本の敗戦のムードが強くなった。
里美ちゃん、俺里美ちゃんのいる信州大好きでずっといたいけど、戦争終わったら東京に帰らないといけないんだ。
どうして?お祭りも行くって言ったのに。まだ剛君に会って少ししか経っていないんだよ。それに、剛君には黙っていたけど、、、。
小柄な里美は、背伸びして剛に唇を重ねた。
すると里美は激しく咳き込み、口を手で抑えた。手のひらには、鮮血が付いていた。
里美ちゃん、ひょっとして!
ごめんね、今のでうつしちゃったら大変だね。
私ももう長生き出来るか、分からないの。本当なら病院入らないといけないんだけど、普通に生活したくて、せっかく剛君と会えたのに、、、。
ひょっとして、結核、、、。
病気で死んでお別れ嫌だし、東京帰っちゃってお別れも絶対嫌だよ!
すごい大好きだからね。
俺も里美ちゃんとお別れ嫌だ。
絶対また、戻ってくるから、お願いだから死なないで。
りんごの花もお祭りも一緒に見れなかった。
東京帰ったら、こんな田舎の娘は、忘れちゃうのかな?悲しいな。
自転車で水路落ちてる、間抜けな娘が居たって事は、少し覚えていてね。
里美ちゃん、、、。