イエス様のことを愛される皆様へ、
序
夕暮れ時の薄暗くなる時間帯を表すのに「黄昏」(たそがれ)があります。昔薄暗くて人の姿がよく見えない時に言った「誰(だ)そ、彼は」、つまり「あの人は誰?」という言葉が語源だといいます。人の姿が見えづらくなる「黄昏」の時は確かに事故や見間違いがしやすくなります。しかし「たそがれ」という単語の意味をよく考えてみれば、信仰の中で歩むキリスト信者にとって、イエス様に当てはめて思慮するところがいくつかあるのではないでしょうか。そして今日の福音書にもつながりがあります。
10月25日は天草の殉教祭です。殉教祭はすでに天草の地域の中で伝統行事のようになりました。毎年行われる殉教祭と、殉教者と現在の共同体のつながりを思い起こせば、キリスト信者にとってあらたな勇気、証しとなる力がわいてきます。現在の熊本の教会が当時の殉教者から生れてきたと思うと、皆の心の中に響く感動的な素晴らしいお祝いになっているのではないでしょうか。
さて、ツルの越冬地鹿児島県の出水平野に、今季第一陣のナベヅル2羽が飛来しました。先週後半から大陸で高気圧が強まり、そこから吹き出す北風に乗って九州に寒気が南下し流れ込み朝晩の冷え込みが強まっています。シベリアなどから飛来するツルたちもこの北風に乗って遠い旅をしてきたのでしょう。冬の使者のようなツル達の飛来が続いています。
マルコによる福音書 10・46-52
信仰というのは先生であるイエス様に従う者たちの歩みです。この歩みの方向は御父である神様のところです。イエス様に従うために必要とされるのは、イエス様と出会いイエス様の心を見出すことです。バルティマイの経験は信仰を求める者たちの先駆者として、信仰の決定的な歩みを示しながらイエス様の光で照らされている主役者となっています。道端に座っていた盲人は「ダビデの子」とイエス様のことを呼んでいます。その叫びは信仰の告白であり、イエス様は天からの贈り物で、光として世を照らすメシアであることを実感します。バルティマイが当時の祈りである詩篇を使ってイエス様に自分のことを憐れまれるようにと願っています。注目すべきところはイエス様の周囲の群衆がまず盲人を、以前「弟子たちと子供たちにしたように」「追い払い」「黙らせようとした」ことです。しかし、絶え間なく願っている声に耳を傾けられたイエス様は群衆を通して、盲人を自分のところに呼び寄せられます。次の三つの動詞はイエス様に近づく段階を示し、キリスト信者の洗礼を受ける心構えも示しています。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ。」そして、見えるようになりたかった盲人は上着を脱ぎ捨て、つまり新しい人生を求めて、古い物乞いをしている生き方を捨ててイエス様のところに近寄りました。最後にイエス様と盲人の対話にも注目しましょう。「何をしてほしいのか」「先生、目が見えるようになりたいのです。」「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」よく考えてみれば、洗礼によってよく見えるようになった私たちは、人生の中をバルテイマイと同じようにイエス様に近づき、先生であるイエス様の言葉を信じて癒されただけではなく、心と体の救いの喜びを受けたことを見出すのです。
モヨリ神父
序
夕暮れ時の薄暗くなる時間帯を表すのに「黄昏」(たそがれ)があります。昔薄暗くて人の姿がよく見えない時に言った「誰(だ)そ、彼は」、つまり「あの人は誰?」という言葉が語源だといいます。人の姿が見えづらくなる「黄昏」の時は確かに事故や見間違いがしやすくなります。しかし「たそがれ」という単語の意味をよく考えてみれば、信仰の中で歩むキリスト信者にとって、イエス様に当てはめて思慮するところがいくつかあるのではないでしょうか。そして今日の福音書にもつながりがあります。
10月25日は天草の殉教祭です。殉教祭はすでに天草の地域の中で伝統行事のようになりました。毎年行われる殉教祭と、殉教者と現在の共同体のつながりを思い起こせば、キリスト信者にとってあらたな勇気、証しとなる力がわいてきます。現在の熊本の教会が当時の殉教者から生れてきたと思うと、皆の心の中に響く感動的な素晴らしいお祝いになっているのではないでしょうか。
さて、ツルの越冬地鹿児島県の出水平野に、今季第一陣のナベヅル2羽が飛来しました。先週後半から大陸で高気圧が強まり、そこから吹き出す北風に乗って九州に寒気が南下し流れ込み朝晩の冷え込みが強まっています。シベリアなどから飛来するツルたちもこの北風に乗って遠い旅をしてきたのでしょう。冬の使者のようなツル達の飛来が続いています。
マルコによる福音書 10・46-52
信仰というのは先生であるイエス様に従う者たちの歩みです。この歩みの方向は御父である神様のところです。イエス様に従うために必要とされるのは、イエス様と出会いイエス様の心を見出すことです。バルティマイの経験は信仰を求める者たちの先駆者として、信仰の決定的な歩みを示しながらイエス様の光で照らされている主役者となっています。道端に座っていた盲人は「ダビデの子」とイエス様のことを呼んでいます。その叫びは信仰の告白であり、イエス様は天からの贈り物で、光として世を照らすメシアであることを実感します。バルティマイが当時の祈りである詩篇を使ってイエス様に自分のことを憐れまれるようにと願っています。注目すべきところはイエス様の周囲の群衆がまず盲人を、以前「弟子たちと子供たちにしたように」「追い払い」「黙らせようとした」ことです。しかし、絶え間なく願っている声に耳を傾けられたイエス様は群衆を通して、盲人を自分のところに呼び寄せられます。次の三つの動詞はイエス様に近づく段階を示し、キリスト信者の洗礼を受ける心構えも示しています。「安心しなさい、立ちなさい、お呼びだ。」そして、見えるようになりたかった盲人は上着を脱ぎ捨て、つまり新しい人生を求めて、古い物乞いをしている生き方を捨ててイエス様のところに近寄りました。最後にイエス様と盲人の対話にも注目しましょう。「何をしてほしいのか」「先生、目が見えるようになりたいのです。」「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った。」よく考えてみれば、洗礼によってよく見えるようになった私たちは、人生の中をバルテイマイと同じようにイエス様に近づき、先生であるイエス様の言葉を信じて癒されただけではなく、心と体の救いの喜びを受けたことを見出すのです。
モヨリ神父