イエス様のことを愛される皆様へ,
「自分の好み通り、また思い通りしたいなら、何をしても徳にもならないし、大きな価値もありません。」
聖フランシスコ・サレシオ
「七五三」は11月15日に、三歳、五歳の男児、三歳、七歳の女児を祝う行事です。熊本では、男児女児とも三歳の髪置、四歳の紐解に当たる子が、親に付き添われ着飾って神社に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで、息災に育ってくれたことへの感謝と、この後の健やかな成長を祈る、思いのこもった晴れやかな祝いごとです。この時こそ、神様は私たちの命であることを思い起こしましょう。私たちは神様の命、人間の命、自然の命を区別しがちですが、実際にすべての命の創造をされて支えてくださるのは神様だけです。日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
マタイによる福音書 25・14―30
典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用
「自分の好み通り、また思い通りしたいなら、何をしても徳にもならないし、大きな価値もありません。」
聖フランシスコ・サレシオ
「七五三」は11月15日に、三歳、五歳の男児、三歳、七歳の女児を祝う行事です。熊本では、男児女児とも三歳の髪置、四歳の紐解に当たる子が、親に付き添われ着飾って神社に参拝し、お世話になった方々を招き小宴を張ったりします。今まで、息災に育ってくれたことへの感謝と、この後の健やかな成長を祈る、思いのこもった晴れやかな祝いごとです。この時こそ、神様は私たちの命であることを思い起こしましょう。私たちは神様の命、人間の命、自然の命を区別しがちですが、実際にすべての命の創造をされて支えてくださるのは神様だけです。日曜日のミサは、感謝の祭儀でありながら、各一瞬の欠かせない命に対して神様に感謝の心を捧げるべきです。この年間の33主日で典礼による一年のしめくくりを迎えることになりました。それに従って使徒パウロと福音書の内容も、この世と生命の創造としめくくりの時について話してくださいます。命に対する神様に対する大きな感謝の心を持ちながら、神様のみ言葉のメッセージに耳と心を傾けたいと思います。使徒パウロの「テサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6」この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時、そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
マタイによる福音書 25・14―30
典礼の今年の最後の日曜日に向けて、イエス様はとても綺麗なたとえ話を語ってくださいます。たとえ話を語るイエス様が求めているのは、その聞き手との出会いです。その心を開き、その目を覚めさせるのです。この予言的なたとえによる、旅行に出て再び戻ってくる主人はイエス様ご自身です。さて、再びこの世にこられるイエス様との新たな出会いを求める私たちは、その出会いをどのような心構えで迎えることがふさわしいのか、それがイエス様の今度のたとえ話の目標だと思います。確かに神様は皆に大きな信頼をもって、いくつかの贈り物でそれぞれの人生を満たし飾ります。しかし、それに気付いた人、またその賜物を生かした人だけをイエス様が誉められています。再び帰ってこられるイエス様を大きな希望を持って、努力して、積極的に迎える人になれば、心の大きな報いを得られます。私たちが神様からいただいた賜物は信仰です。それをいただいた私たちが小さなことにも忠実な僕として、信仰に基づいた生き方を送ることができれば、喜んで下さる神様が、さらに大きな報いを準備してくださいます。
モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用