カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 A年 後書き。

2011年11月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
後書き
「毎週の一言」をブログにする夢を考えた時に、確かに心の戦いがありました。自分の共同体の為に何か、一つの思いがしつこく私の心の中に浮かんでありました。どのようにして毎週の神様のみ言葉を優しく、より分かりやすい人に伝えるのを出来るのかと離れない思いでした。特別に内の教会の信者さん達、またこの地域のものたちにも、とっても美しい、感動される毎週のカトリック典礼から勧められたみ言葉をどのようにして伝えられのか、わたしの大きな夢と希望でした。さて「毎週の一言」のプロジェクトを考えながらみ言葉を山鹿、菊池地方の日本人に伝えるために一番いい方、伝えやすい形を考えました。まず、題名として、強制的な題名ではなくお誘いのような言葉を選びました。「一言」という表現は私にとって、静かに優しく忙しい人の耳に吹き込んだ言葉として思いました。そしてもちろんその言葉がカトリックの典礼にそったカレンダでしたからその一言をそのカレンダにつながりました。その「一言」を向かわせたのはキリスト信者ばかりではなく、「イエス様のことを愛される皆さんです」。そのような者たちは言いかえれば、心のよい人、神様の言葉と思いを受け入れた人、神様が好まれる者たちで幸いな人です。そして毎週にブログとプリントされた文章の構成はいくつの部分に作られていました。頭に置かれたのは場合によって内のふるさとの写真と一緒に菊池市の書道会で「紫光会」から提供された綺麗な達筆な字で書かれた福音書の歌から毎週の日曜日とれたみ言葉でした。次に聖フランシスコ サレシオのすすめー生活のスパイス365日(ドン・ボスコ社1974)から毎週に適切な言葉を選んで当時の文章の入門として置きました。次に「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部 季節の現す言葉を選んで出来るだけそれをキリスト教の思いとお勧めにつながるようにしました。その後、場合によってカトリックの公共要理(カテキスム)の中から、あるいわ使徒パウロの手紙の中からキリスト信者を指導することばを選んでいて、場合によってキリスト教を簡単に理解しやすい言葉も付けくわえました。最後に私の文章の中心であった当日の日曜日のカトリックの典礼の福音書の解説とそのわかりやすい説明を加えました。毎回の日曜日の福音書とその解説や説明も日本語にするだけではなく、私が今まで理解が出来た日本の思いと習慣に本ついて、翻訳くしたのは、[Renato L.De Zan 、Roberto Laurita 「La parola per la Chiesa。 」EDB 2007] 。当本ついて連続三年間(A-B-C)毎週の日曜日の福音書のコメントを参考にして自分の文章を書きました。そして黙って行けないことですが毎週三年間も続けていつも忠実にわたしの文章を見てもらって、直してくださったのは弱い体、不調の中で中川道代さんでした。彼女に大きな感謝を持ちながら心からお礼もうしあげます。それにまた、福音書のより豊かな解説のために手伝ってくださったのはイタリアにおられるP.Viola Giovanniです。P.Violaとの豊かな対話の中で沢山の福音書のポイントを気付かせて、お陰様で解説は時によってとっても綺麗な、暖かい文章になりました。P.Violaにも心から感謝しています。
毎週忍耐を持って当文章を読む人にも感謝を持って、喜びと豊かな思い、心の欠かさない平和を味わうように心から申し上げます。モヨリ神父


毎週の一言 A年 王であるキリストの主日

2011年11月17日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛する皆様、

「神に目を注ぎ、自分を見つめなさい。
必ず善良さにあふれる神とみじめさに置かれている自分を見るでしょう」
                                聖フランシスコ・サレシオ
イエス様のことを愛される皆様へ、
 あたたかい10月から一転、今月は急に寒い日が多くなりました。先週末からの寒さで、慌ててコートを出した方が多かったのではないでしょうか。今週後半はいったん寒さが緩み、小春日和となりましたがしかし、来週に入ると新たな寒気が流れ込み再び寒くなります。このごろ落ちつつある葉、すでに落ちた葉、ともに「おちば」と言います。その落ちる様子、音、散り敷く状態に風情があり、無常を感じさせるものがあって、多くの人が心を寄せています。それに従って、神様との出会いをいつも求めるキリスト信者に、この世や寿命の短さを思い起こさせます。しかし、同時に神様のみ摂理には、葉が落ちても大切にされる神様の思いの計画があります。王である主の日を迎えるキリスト信者は命を讃える日を祝い、共同体の宴会を催す日でもあり、神様は喜びであふれる豊かな時の準備をされています。その中に勤労の感謝の祭日にもあたって、私たちの労働の実りは自分のものになるだけではなく、貧しい人と分かち合う神様の贈り物です。「使徒パウロのコリントの教会への手紙(-)15・20-28」で、使徒パウロはいろんな話題が全てキリストから発進して、キリストに戻ると述べています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は私たち一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っておられます。使徒パウロによるとイエス様が来られたのは死者が命を得るためです。使徒パウロが思う死者とは肉体が死んだ者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者なのです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来られました。皆を神様の方に取り戻すためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の懐に戻るのは確かに使徒パウロが述べたように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、そしてその他の者全て、最後にどんなことでも神様のところにもどります。このようなことが宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標です。そしてイエス様が人間を悩ませる敵も、その中の死にも打勝ち、皆をもともとあったように神様のふところにすべて永久に取り戻したいのです.
マタイによる福音書 25・31-46
 ローマのバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の天井には、ミケランジェロにより、マタイによって語られる最後の審判が力強く見事に描かれています。(ちなみに、日本の芸術家によって修復された大作でもある)けれどもマタイが福音書に書かれる物語は、あくまでもたとえ話のような話ですから、その中に解説のようなフレームの部分を見分けて、大切なポイントだけを見出さなければなりません。だから、いつもたとえ話を分析するときのように、イメージから少し離れて、メッセージの中身を深めるようにしましょう。大事なことはその中にいくつかあると思いますが、絶対欠かせないのは私たちのすぐそばにいるのはイエス様ご自身であり、その姿を示してくださるのです。そして周囲の困っている者たち、苦しんでいる人に何かしてあげた時、イエス様ご自身にしたことになります。実際にこの思いの中で、そうすることによって人間は最後の喜びを得られるのです。                 モヨリ神父
※「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部引用。