後書き
「毎週の一言」をブログにする夢を考えた時に、確かに心の戦いがありました。自分の共同体の為に何か、一つの思いがしつこく私の心の中に浮かんでありました。どのようにして毎週の神様のみ言葉を優しく、より分かりやすい人に伝えるのを出来るのかと離れない思いでした。特別に内の教会の信者さん達、またこの地域のものたちにも、とっても美しい、感動される毎週のカトリック典礼から勧められたみ言葉をどのようにして伝えられのか、わたしの大きな夢と希望でした。さて「毎週の一言」のプロジェクトを考えながらみ言葉を山鹿、菊池地方の日本人に伝えるために一番いい方、伝えやすい形を考えました。まず、題名として、強制的な題名ではなくお誘いのような言葉を選びました。「一言」という表現は私にとって、静かに優しく忙しい人の耳に吹き込んだ言葉として思いました。そしてもちろんその言葉がカトリックの典礼にそったカレンダでしたからその一言をそのカレンダにつながりました。その「一言」を向かわせたのはキリスト信者ばかりではなく、「イエス様のことを愛される皆さんです」。そのような者たちは言いかえれば、心のよい人、神様の言葉と思いを受け入れた人、神様が好まれる者たちで幸いな人です。そして毎週にブログとプリントされた文章の構成はいくつの部分に作られていました。頭に置かれたのは場合によって内のふるさとの写真と一緒に菊池市の書道会で「紫光会」から提供された綺麗な達筆な字で書かれた福音書の歌から毎週の日曜日とれたみ言葉でした。次に聖フランシスコ サレシオのすすめー生活のスパイス365日(ドン・ボスコ社1974)から毎週に適切な言葉を選んで当時の文章の入門として置きました。次に「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部 季節の現す言葉を選んで出来るだけそれをキリスト教の思いとお勧めにつながるようにしました。その後、場合によってカトリックの公共要理(カテキスム)の中から、あるいわ使徒パウロの手紙の中からキリスト信者を指導することばを選んでいて、場合によってキリスト教を簡単に理解しやすい言葉も付けくわえました。最後に私の文章の中心であった当日の日曜日のカトリックの典礼の福音書の解説とそのわかりやすい説明を加えました。毎回の日曜日の福音書とその解説や説明も日本語にするだけではなく、私が今まで理解が出来た日本の思いと習慣に本ついて、翻訳くしたのは、[Renato L.De Zan 、Roberto Laurita 「La parola per la Chiesa。 」EDB 2007] 。当本ついて連続三年間(A-B-C)毎週の日曜日の福音書のコメントを参考にして自分の文章を書きました。そして黙って行けないことですが毎週三年間も続けていつも忠実にわたしの文章を見てもらって、直してくださったのは弱い体、不調の中で中川道代さんでした。彼女に大きな感謝を持ちながら心からお礼もうしあげます。それにまた、福音書のより豊かな解説のために手伝ってくださったのはイタリアにおられるP.Viola Giovanniです。P.Violaとの豊かな対話の中で沢山の福音書のポイントを気付かせて、お陰様で解説は時によってとっても綺麗な、暖かい文章になりました。P.Violaにも心から感謝しています。
毎週忍耐を持って当文章を読む人にも感謝を持って、喜びと豊かな思い、心の欠かさない平和を味わうように心から申し上げます。モヨリ神父
「毎週の一言」をブログにする夢を考えた時に、確かに心の戦いがありました。自分の共同体の為に何か、一つの思いがしつこく私の心の中に浮かんでありました。どのようにして毎週の神様のみ言葉を優しく、より分かりやすい人に伝えるのを出来るのかと離れない思いでした。特別に内の教会の信者さん達、またこの地域のものたちにも、とっても美しい、感動される毎週のカトリック典礼から勧められたみ言葉をどのようにして伝えられのか、わたしの大きな夢と希望でした。さて「毎週の一言」のプロジェクトを考えながらみ言葉を山鹿、菊池地方の日本人に伝えるために一番いい方、伝えやすい形を考えました。まず、題名として、強制的な題名ではなくお誘いのような言葉を選びました。「一言」という表現は私にとって、静かに優しく忙しい人の耳に吹き込んだ言葉として思いました。そしてもちろんその言葉がカトリックの典礼にそったカレンダでしたからその一言をそのカレンダにつながりました。その「一言」を向かわせたのはキリスト信者ばかりではなく、「イエス様のことを愛される皆さんです」。そのような者たちは言いかえれば、心のよい人、神様の言葉と思いを受け入れた人、神様が好まれる者たちで幸いな人です。そして毎週にブログとプリントされた文章の構成はいくつの部分に作られていました。頭に置かれたのは場合によって内のふるさとの写真と一緒に菊池市の書道会で「紫光会」から提供された綺麗な達筆な字で書かれた福音書の歌から毎週の日曜日とれたみ言葉でした。次に聖フランシスコ サレシオのすすめー生活のスパイス365日(ドン・ボスコ社1974)から毎週に適切な言葉を選んで当時の文章の入門として置きました。次に「新 くまもと歳時記編集委員会編」(熊本日日新聞社)より一部 季節の現す言葉を選んで出来るだけそれをキリスト教の思いとお勧めにつながるようにしました。その後、場合によってカトリックの公共要理(カテキスム)の中から、あるいわ使徒パウロの手紙の中からキリスト信者を指導することばを選んでいて、場合によってキリスト教を簡単に理解しやすい言葉も付けくわえました。最後に私の文章の中心であった当日の日曜日のカトリックの典礼の福音書の解説とそのわかりやすい説明を加えました。毎回の日曜日の福音書とその解説や説明も日本語にするだけではなく、私が今まで理解が出来た日本の思いと習慣に本ついて、翻訳くしたのは、[Renato L.De Zan 、Roberto Laurita 「La parola per la Chiesa。 」EDB 2007] 。当本ついて連続三年間(A-B-C)毎週の日曜日の福音書のコメントを参考にして自分の文章を書きました。そして黙って行けないことですが毎週三年間も続けていつも忠実にわたしの文章を見てもらって、直してくださったのは弱い体、不調の中で中川道代さんでした。彼女に大きな感謝を持ちながら心からお礼もうしあげます。それにまた、福音書のより豊かな解説のために手伝ってくださったのはイタリアにおられるP.Viola Giovanniです。P.Violaとの豊かな対話の中で沢山の福音書のポイントを気付かせて、お陰様で解説は時によってとっても綺麗な、暖かい文章になりました。P.Violaにも心から感謝しています。
毎週忍耐を持って当文章を読む人にも感謝を持って、喜びと豊かな思い、心の欠かさない平和を味わうように心から申し上げます。モヨリ神父