カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

「今週の公教要理の錠剤」3

2011年12月08日 | メッセージ(その他)
B年 待降節第三主日
「神」
「神」というのは何と不思議な言葉でしょう。「神」と言ってもはっきりしないと思います。実際にどのような事実を示しているのかは皆にとってピンと来ないと思います。確かに「神」と言う言葉は使う人によって違う意味になり、神様の姿がそれぞれの人の文化、国との違いによって変わってくると思います。それはどうしてかと言えば、いくつかの理由があり、神様を探し求める人間が、いつでもその出会いを果たすという事ではないと思います。ほとんどの人は「神」と言うと確かに神秘的な存在を思いながら、身近に感じる世界や自然に隠されてある不思議な力だと思っています。無神論者や神様の姿がどういうものであるか知らない人でも「神」と言う言葉を使うと、自分の心の中に神様のイメージを作って「神」と言う言葉を発言します。彼らにとっても欠かせない存在であり、神様の世界は深く人間には届くことができないものだということは明らかです。場合によって神様は遠くて、人間の敵、怖いものとしても受け取られています。しかし、イエス様を信じて従う者たちは見事に神様の姿、神様の心を知るようになりました。まず私たちに神様の姿、神様の心を現したのはイエス様ご自身です。言葉、行い、奇跡を通して話してくださいましたが、特別にイエス様は十字架にかけられて死んで、私たちに神様の愛の最高の印を示してくださいました。人間はイエス様の死に方によって、神様は愛であることを覚えました。イエス様は神の子として人類の間に、馬小屋の中でお生まれになり、私達と同じように生活し私達に神様の愛、神様の心、その慈しみと憐れみを教えてくださいました。キリスト信者にとって「神」と言う不思議な言葉を使う時には、唯一の意味だけを思っています。イエス様が教えられた神様の姿です。その神様を父と子と聖霊と呼ぶ私達と共にいつまでもおられます。お父さんのように愛して、子供のように小さいものとして私達の人生を分かち合って、良いことのある所に宿られています.
                                モヨリ神父