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イエス様のことを愛される皆様へ、
序
牡丹(ぼたん)は「百花の王、百花の神」と称されるほど重量感と気品に満ちた花です。咲き満ちたときの存在感はいうまでもなく、芳香を伴った大輪を目のあたりにすると日輪よりも大きく感じるほどです。気候は暖かくなって蜂たちは飛び回り荘厳な色、甘い香りを持った大きな牡丹に入り込むと素晴らしい世界に入ったように楽しんでいます。散ってゆくときもまるで大地に音を響かせるようで大人の生死を見るおもいです。さて、4月20日ごろが春の終わりの節季で穀雨(こくう)と言います。春雨の降る日が多くなり、田畑を潤すため、穀物の種蒔きとその成長の好期です。復活節中豊かに喜んで過ごしている信者たちは、毎日の福音書の朗読に入り込むと素晴らしい色で光輝く世界を見出し、心をとらえる香りのようにそれを味わうようになります。復活されたイエス様の姿を見た弟子たちは同じように、大きな勇気の力を持って自分の心や自分の愛する共同体も成長させて、全てのものにイエス様の復活の喜びを伝えています。
ヨハネによる福音書10・27-30
時によって、キリスト信者は自分の信仰について問われることがあります。当福音書は私たちの信仰の柱を三つ教えてくださいます。イエス様を「聞くこと、知ること、従うこと」です。このように人はイエス様のことを信じるようになり、ずっとイエス様に結びつきつながっています。人が信じるようになってイエス様に属すようになるのはもう一つの神秘的な理由があります。それは神様ご自身がイエス様と一つであるように、羊のような私たちが神様からイエス様に与えられて、イエス様と一つになってこのようにイエス様とずっと結びついているのです。初代教会の時から弟子たちの声を聞き入れなかった人は、永遠の命の拒否をしたことになっていましたが、それを受け入れた者たちはイエス様の羊の群れに属していることになりました。詩編によると神様と話さない人は、暗いところにいて死んだような者になっています。言葉や創造物、毎日の出来ごと、自分の意識を通して、いつも話してくださる神様につながって聞く人は永遠に生きるのです。実はキリスト信者は「聞く」それは、耳で聞くのではなく、心で、体で、頭で聞くことになって理性、直感、情けを通してイエス様の姿、思い、言葉、行いを受け入れるのです。このような方法でイエス様を聞くことにすれば、キリスト信者はイエス様に従う行動が出来、イエス様を真似しながら自分が置かれた日常生活の中でイエス様とまったく同じように生きることになっています。キリスト信者はイエス様の真似をしてもイエス様の言葉と行いをリピート(反復)するのではなく、キリスト信者は神様に置かれた人生の具体的な立場に立ってイエス様の思いや心をもって、その中で行い、工夫して生活を送っています。このようにキリスト信者はイエス様と深く結びついています。自分が洗礼を受けた時に、聖体をいただい時の経験を考えてみれば、イエス様に従うようになったその時こそ、イエス様と深い結びつきが出来たのです。このようにイエス様と結びついたキリスト信者は、イエス様と一つになり、イエス様と一緒に生きるようになります。それに従って使徒パウロが言ったようにキリスト信者はイエス様と共に死んでイエス様と一緒に生き、永遠に復活します。これは皆に神様から勧められた使命です。
モヨリ神父
序
牡丹(ぼたん)は「百花の王、百花の神」と称されるほど重量感と気品に満ちた花です。咲き満ちたときの存在感はいうまでもなく、芳香を伴った大輪を目のあたりにすると日輪よりも大きく感じるほどです。気候は暖かくなって蜂たちは飛び回り荘厳な色、甘い香りを持った大きな牡丹に入り込むと素晴らしい世界に入ったように楽しんでいます。散ってゆくときもまるで大地に音を響かせるようで大人の生死を見るおもいです。さて、4月20日ごろが春の終わりの節季で穀雨(こくう)と言います。春雨の降る日が多くなり、田畑を潤すため、穀物の種蒔きとその成長の好期です。復活節中豊かに喜んで過ごしている信者たちは、毎日の福音書の朗読に入り込むと素晴らしい色で光輝く世界を見出し、心をとらえる香りのようにそれを味わうようになります。復活されたイエス様の姿を見た弟子たちは同じように、大きな勇気の力を持って自分の心や自分の愛する共同体も成長させて、全てのものにイエス様の復活の喜びを伝えています。
ヨハネによる福音書10・27-30
時によって、キリスト信者は自分の信仰について問われることがあります。当福音書は私たちの信仰の柱を三つ教えてくださいます。イエス様を「聞くこと、知ること、従うこと」です。このように人はイエス様のことを信じるようになり、ずっとイエス様に結びつきつながっています。人が信じるようになってイエス様に属すようになるのはもう一つの神秘的な理由があります。それは神様ご自身がイエス様と一つであるように、羊のような私たちが神様からイエス様に与えられて、イエス様と一つになってこのようにイエス様とずっと結びついているのです。初代教会の時から弟子たちの声を聞き入れなかった人は、永遠の命の拒否をしたことになっていましたが、それを受け入れた者たちはイエス様の羊の群れに属していることになりました。詩編によると神様と話さない人は、暗いところにいて死んだような者になっています。言葉や創造物、毎日の出来ごと、自分の意識を通して、いつも話してくださる神様につながって聞く人は永遠に生きるのです。実はキリスト信者は「聞く」それは、耳で聞くのではなく、心で、体で、頭で聞くことになって理性、直感、情けを通してイエス様の姿、思い、言葉、行いを受け入れるのです。このような方法でイエス様を聞くことにすれば、キリスト信者はイエス様に従う行動が出来、イエス様を真似しながら自分が置かれた日常生活の中でイエス様とまったく同じように生きることになっています。キリスト信者はイエス様の真似をしてもイエス様の言葉と行いをリピート(反復)するのではなく、キリスト信者は神様に置かれた人生の具体的な立場に立ってイエス様の思いや心をもって、その中で行い、工夫して生活を送っています。このようにキリスト信者はイエス様と深く結びついています。自分が洗礼を受けた時に、聖体をいただい時の経験を考えてみれば、イエス様に従うようになったその時こそ、イエス様と深い結びつきが出来たのです。このようにイエス様と結びついたキリスト信者は、イエス様と一つになり、イエス様と一緒に生きるようになります。それに従って使徒パウロが言ったようにキリスト信者はイエス様と共に死んでイエス様と一緒に生き、永遠に復活します。これは皆に神様から勧められた使命です。
モヨリ神父