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七五三、勤労の感謝の月に、王であるキリストの祝日を迎えます。つまり、イエス様自身、王であると宣言します。実はそれをされたのはピラトの前でした。ちょうど大きな苦しみを迎えた時です。十字架の上部に書いてある通り「INRI」ラテン語で「IESUS・NAZARENUM・REX.・IUDEORUM」(訳):「イエス様はユダヤ人の王です」。謙虚なイエス様が「私は王です」と言っていますが、それを聞いてわたし達は驚きます。けれどそのイエス様の言葉を少し深く考えてみると、真実の愛の素晴らしさを示してくださいます。この世の王様達のことを考えてみましょう。王様とは自国の民の人生の中心であり、すべてを自分から出し、全てが自分に戻ってきます。王様は王国の中心であり、愛の勝利を示しています。国民を愛して一人一人の為に命をささげて、皆を見守っているものです。同時に国民達は王様の姿を見つめながら、その思いの下に生きています。そのように王であるイエス様と神の国の一員である私達も、普遍的で欠かせない大きな愛に結びついています。
「ルカによる福音書 23・35-43」
使徒パウロによると「王であるキリスト」の意味は、神様の子であるキリストを通して、わたし達は皆、罪を赦されて救われているということです。さて、当福音書は三つの部分に分けることが出来ます。第一、イエス様に対する民衆の侮辱、第二、イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人との対話、第三、イエス様と犯罪人一人との対話です。何人かの者たちが人類を愛する為に十字架に付けられたイエス様を侮辱しながら、イエス様がメシアと王様であることを認めず拒否しています。イエス様が神様とその愛について話した時に、よく神の国、あるいは天の国という表現を使っていました。その表現の中に含まれたメッセージは、イエス様は神の国の始まり、その国の中心であり、神の国の目標でもあるということです。キリスト信者にとって、イエス様は教会の頭であり、最後に復活されるものたちの欠かせない命ですから、皆の王様なのです。王であるイエス様によって、全人類が救われています。イエス様が人類の救いを望まれる神様の心を果たす為に、自分の人生を十字架上で全うされたから皆の王様であるのです。最後に反省した犯罪人の一人は、イエス様の心に呼びかけながら、イエス様を包む真実を強調します。イエス様と一緒に十字架に付けられた二人の犯罪人は正義による死刑を受けるのですが、イエス様は悪いことを一つもせず十字架に掛けられています。犯罪人の一人は、イエス様が本当に王であることを信じ、人々の救い主であると認めています。それでイエス様に向かって自分の救いも求めて願っています。宇宙万物の王であるイエス様は「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる。」と約束されました。
モヨリ神父