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イエス様のことを愛される皆様へ、
序
[霜降]文字通り、霜の降り始める頃という意味です。霜は気温が約3度以下に下がると降りやすくなる。このごろ県内は季節はずれの陽気で、最低気温3度とは程遠い日が続いています。しかし、雨が降ったあと今週末からは、寒気が流れ込んでくると急に気温が下がります。菊池地方の山沿いは3度近くまで下がる日もありそうです。このような自然現象はより深い意味で全く同じように旧約聖書の中に取り上げられています。それは神様の言葉の働きを示しています。それだけではなく、人生の短さをも示しています。霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 4・14-5・1
人間はどんな時代でも死とその後を恐れて、不安と脅威に苛まれていたと思います。それを知った聖パウロは慰めの言葉をコリントの教会の信徒たちに伝えています。洗礼によってイエス様と一体となった私たちは、イエス様と同じように神様の力によって、死から復活することになっています。イエス様と共に復活した私たちは豊かな恵みによって神様の栄光になります。それで私たちは感謝の心をもって喜びます。聖パウロが詳しく言うように、このような神秘的な世界は私たちの体の目で見えるところではありませんが、心の目で見られる真実になっています。なぜなら私たちは永遠の命に存続しているからです。この聖パウロの個所の最後には感動するほど身近な言葉が伝えられています。私たちが憧れている実家はこの体やこの世の住まいではなく、イエス様が準備してくださった天国の住まいです。そこにいつか皆で、永遠に住むことになっているのですから大きな希望を持つべきです。
ヨハネによる福音書 6・37―40
死者の日の思いは諸聖人の祝に関する背景とも同じです。つまりイエス様に従った者たちはイエス様と一緒に永遠に生き、イエス様と一緒に普遍的な共同体になっています。生きている間の私たちもこの共同体もイエス様のものです。偶然ではなく神様の働きによってイエス様に出会った私たちもイエス様のものになって、イエス様の下でひなが親の羽の下にいるようになりました。
イエス様はだれも追い出さない、むしろ一人ひとりを大切にしてくださいます。なぜなら私たちは、神秘的な計画によってイエス様の手に任せられています。もし、この世に生きている私たちがイエス様と同じように神様のみ心に従うならば、神様の思い通りに生きることができるならば、私たちも聖パウロがおっしゃるように復活することになり、神様の懐で永遠に生きることになります。これはキリスト信者としての大いなる希望なのです。
モヨリ神父
序
[霜降]文字通り、霜の降り始める頃という意味です。霜は気温が約3度以下に下がると降りやすくなる。このごろ県内は季節はずれの陽気で、最低気温3度とは程遠い日が続いています。しかし、雨が降ったあと今週末からは、寒気が流れ込んでくると急に気温が下がります。菊池地方の山沿いは3度近くまで下がる日もありそうです。このような自然現象はより深い意味で全く同じように旧約聖書の中に取り上げられています。それは神様の言葉の働きを示しています。それだけではなく、人生の短さをも示しています。霜のように人生は日光に貫かれるとすぐに消えてしまいます。そのように寿命もとても短いです。諸聖人の祝日と死者の日を迎える私たちにとって、確かに参考になる事柄だと思います。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 4・14-5・1
人間はどんな時代でも死とその後を恐れて、不安と脅威に苛まれていたと思います。それを知った聖パウロは慰めの言葉をコリントの教会の信徒たちに伝えています。洗礼によってイエス様と一体となった私たちは、イエス様と同じように神様の力によって、死から復活することになっています。イエス様と共に復活した私たちは豊かな恵みによって神様の栄光になります。それで私たちは感謝の心をもって喜びます。聖パウロが詳しく言うように、このような神秘的な世界は私たちの体の目で見えるところではありませんが、心の目で見られる真実になっています。なぜなら私たちは永遠の命に存続しているからです。この聖パウロの個所の最後には感動するほど身近な言葉が伝えられています。私たちが憧れている実家はこの体やこの世の住まいではなく、イエス様が準備してくださった天国の住まいです。そこにいつか皆で、永遠に住むことになっているのですから大きな希望を持つべきです。
ヨハネによる福音書 6・37―40
死者の日の思いは諸聖人の祝に関する背景とも同じです。つまりイエス様に従った者たちはイエス様と一緒に永遠に生き、イエス様と一緒に普遍的な共同体になっています。生きている間の私たちもこの共同体もイエス様のものです。偶然ではなく神様の働きによってイエス様に出会った私たちもイエス様のものになって、イエス様の下でひなが親の羽の下にいるようになりました。
イエス様はだれも追い出さない、むしろ一人ひとりを大切にしてくださいます。なぜなら私たちは、神秘的な計画によってイエス様の手に任せられています。もし、この世に生きている私たちがイエス様と同じように神様のみ心に従うならば、神様の思い通りに生きることができるならば、私たちも聖パウロがおっしゃるように復活することになり、神様の懐で永遠に生きることになります。これはキリスト信者としての大いなる希望なのです。
モヨリ神父
少しずつ寒さの増す季節は、あたりが綺麗な紅葉で染まってきて、神様はわたし達に天国の喜びをほんの少し味わわせてくれています。 同時に各家庭に置かれるようになるストーブの暖かさもわたし達の体と心を暖めてくれます。典礼的な年の締めくくりに向かっています。 待降節の前に最後の年間の三つの日曜日が残されていて、王であるキリストの祝日で今年の典礼的な一年が閉じられます。わたし達にとって母である教会がこの頃勧める朗読は、天国の素晴らしさを語ってくれています。キリスト信者にとって、死後やこの世の終わりのことは不安や恐ろしい思いではなく、生きている間ずっと積極的に準備しながら期待された時ですから、もっとも大きな喜びと希望をもたらす時期となっています。 わたし達が向っているイエス様との出会いは今日の福音書の中でイエス様とザアカイとの出会いに語られています。ザアカイはイエス様を見たくてたまりがません。いちじく桑の木に登ってやっと見る事ができますが、実はイエス様の方からザアカイの心に逢いたかったのです。 このような出来事の細かいところまで分析してみましょう。もしかして、わたし達とイエス様の出会いに似ているかもしれません。 まず、イエス様がイチジク桑の木に登った背の低いザアカイを見るために見上げて、ザアカイに声をかけました。イエス様はいつも低い立場から、隠れた所から思いがけない所から、時には沈黙の中からも、私達の方にご自分の目を注がれています。イエス様がその視線を、完全になるための方法を尋ねた若者の上にも注がれましたが、その人はその視線に気づかず、頭を下げながらイエス様から離れてしまいました。その視線に気づいた、大きな光に照らされたザアカイは、急いでイチジク桑の木から降りて、自分の家においでになりたかったイエス様を心を込めて受け入れました。イエス様を受け入れるために自分の心を完全に改めました。(つまり:改心、会心、回心、快心、)財産などは捨ててイエス様だけを自分の人生、自分の心の中に受け入れられるようにしました。その時のそのザアカイの気持ちを想像できれば、わたし達でもザカイのようになれるのではないでしょうか。
今日の福音書をゆっくり読んで、一つの言葉だけに注目してください。それは「喜び」です。まず何回、どこで、どうして出てくるか見てみましょう。一生幸せを探し求めるわたし達にとっては、その幸せになる喜びの味わい方は参考にならないでしょうか。心が自由になった時にイエス様の視線に気づき、私達の家のドアをイエス様に明けていただいたら、そこに大きな、欠かす事のできない喜びが味わえ、私達の幸せの源を見出すことが出来ます。