カトリック菊池教会 


毎週の福音書と典礼にそって人生の素ばらしさを探る一言
菊池教会の電話:0968-25-2381

毎週の一言 1- 31 (A 年 ラテラン教会の献堂)

2008年11月07日 | 神父様からメッセージ(A年)
イエス様のことを愛される皆様へ、
小春日和に、時ならず返り(帰)咲く花のことを、「忘れ花」ともいいます。本来返り咲く桜のこといいますが、その他にそれぞれの花の名もつきます。葉も乏しくなった枝先に咲く返り花には心安らぐものがあります。ヨーロッパでもこの頃、好天が続き楽しい物語につながっています。ツールの聖マルチノは司教になる前は兵士でした。雪の降る冷たく寒い11月のある日、聖マルチノが田舎の道を歩いていると、道端で薄い服を着た物乞いの男に会います。早速、聖マルチノは刀を抜いて自分のマントを半分に切り裂き、寒さで震えている男に施しました。その時、それを見た神様も微笑んで小さい春を呼び起こして地球をあたためました、そして花々も思わず咲き始めたということです。当祝日はローマの教皇様にたいする敬愛を示すラテラン教会の献堂祭日です。安息日に何度も病人を癒された主の日であるイエス様が、毎週日曜日は心と体の癒しの日であることを教えてくださいました。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 3・9-17
コリントの信徒への手紙を通して、聖パウロはイエス様の教会はどのようなものであるかを明確な言葉で話してくださいます。「あなた方は神殿なのです」と聖パウロは力強くおっしゃっています。この表現によって、イエス様の教会は石で作られたものではなく人間、つまりキリスト信者の心と体で作られていると告げられています。そのように教会は生きる神様がおられる場所なのです。さて、イエス様に従った者たちの心は、生きておられる神様のおられる場所であり、神様と対話するところです。それに従って私たちが人間の命、人間そのものの尊さを覚えるようになりました。それだけではなく聖パウロの言葉により、キリストの教会である私たちの共同体は、崩れることのない土台の上に建てられているとおっしゃっています。その土台は洗礼を通して神様から頂いた御恵みなのです。私たちは神様を讃える善行を行い、それによって皆にイエス様の姿や心をも見せることができます。そして聖パウロの教えでは教会の欠かせない特徴は、すべてのキリスト信者が皆、聖霊で結ばれていることです。だからキリスト信者の教会は共同体であり、お互いに尊敬をもって愛し合い、分かち合い、一緒にお祈りが出来る神様の住まいなのです。
ヨハネによる福音書 2・13-22
今日のヨハネの福音書は、イエス様が自分の父である神様の家(神殿)から商売人を鞭をもって追い出しています。当個所はイエス様がなさった印によって私たちの信仰を深めています。イエス様自身が神様の神殿であることを公に宣言されています。神様を拝むところは独特な場所だけではなく、皆の心の中に神様がおられて出会うことができ、対話し拝むことができます。イエス様は自分自身が神様の神殿であり、生きている神様がおられる所であることを示しながら、私たちに豊かなメッセージを残してくださいます。キリスト信者の共同体である教会自体もイエス様の体なのです。イエス様は殺された後、復活されました。同じようにイエス様の体であるキリスト信者も死んでもイエス様と共に復活します。このようにイエス様自身と教会は一体となって、神様が宿るところであり、神様のありのままの姿を示しています。
                         モヨリ神父

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
C 年 32主日 (神父)
2008-11-07 18:47:57
イエス様のことを愛される皆様へ、

あっと言う間にもう十一月の半ばですが、私達の心は特別な喜びで満たされています。それは感謝の心です。新米の収穫が終わり、さまざまな美味しい野菜、葡萄、栗、梨、柿、の収穫なども終わって、心は感謝で一杯です。それだけではなく、毎朝目が覚めて、神様が私達のすぐそばにおられ、私達が知らないうちに人生は限りない恵みで満たされていると気づくと、心は感謝で溢れます。 私達は神様に感謝を歌う為に生きています。感謝の心は人生の喜びの芯になっています。このような心は、宗教的な勧めだけではなく、心と体(精神⇔心身)の健康の源です。この背景の中でとても豊かな日本の文化と、同時にキリスト教から遠くない日本の思想でも「七五三」を祝います。 「七五三」と言う祝いは、人生の喜びである子供達の成長を祝い、神様からいただいた「命」を祝います。小さい子供の弱い命が死亡率の高い時代には、親にとって七歳、五歳、三歳に育つことができた子供達は、神様の大きな恵みによるものだと考えられて、その感謝を大きな喜びの祭りとして祝ったのでした。感謝で溢れている私達の心も、子供達の成長とその喜びを歌いたいと思います。それは「七五三」の素朴な祝いによって、子供達がつつがなく成長したことを通して、命の神秘的な尊さを表しています。 私達はそのいただいた命に対して、又生かされていることに対して、「感謝の祭儀」(ミサ)を通して心の感謝を表します。神様に生かされている私達は各人生の出来事、その一瞬々の小さな命の祝いでも、とても大事でいつでも神様に直接に触れる場になります。復活されたイエス様は弟子達にまた再び会えることを約束しましたが、このような人生の各出来事を祝う時でも、わたし達にとってイエス様との再会の時になり、その再会の大きな喜びになっています。 このように神様の命の中に生きるわたし達は、死の後にどのように生きつづけるかを考えるべきで、それはイエス様に問われている貴重な課題だと思います。
今日の福音書では、イエス様がこのような疑問に答えられています。 まず神殿のように、いえむしろそれより大切である私達の心と体は、神様がお住いであり神様の家です。だからわたし達はイエス様と一緒に死んで、イエス様と一緒に確実に復活できるのです。わたし達の体は天使になります。 わたし達の間の関係も共同体としてずっと残るのですが、皆が一体になって復活されたイエス様の姿を表すようになります。 そして皆がこのように神様の命につつまれており、ずっと永遠に生きることになります。
このように神様からいただいた神秘的な命の尊さを考えてきますと、どんな小さい命の祝いでも私達にとって、神様の命を祝うことになるのです。 人生の一瞬々の命の輝きを心に留めて、ずっと永久に神様に感謝の心をもつべきではないでしょうか。
  
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。