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キリスト信者は聖霊の風に吹かれて、つまり復活されたイエス様の息を浴びて、新しい心で、新しく生まれ変わって勇気を出して神様からいただいた人生を大切にします。キリスト信者は生きていても死んでいてもイエス様と一緒になって、復活されたイエス様と一緒に復活して、赦しと慈しみの心を持ち、いろんな苦しみを乗り越えられます。キリスト信者はこのような強い風の翼に乗って人生を送ります。復活祭の時に受けられた恵みも良く見れば自分の人生の中、共同体の中でも当季節の様々な花と同じように見事に咲いています。このように神様の美しさを身近にみられます。
「
「ヨハネによる福音書 21・1-9」
先週の福音書の箇所の主役者は使徒トマスでしたが、今度はペトロです。ペトロが漁に行く決意をしめしましたが、陸にイエス様がおられるとわかって、すべてを残して水に飛び込みイエス様のもとに戻ります。その時ペトロがもう一度イエス様の呼びかけで、当時の共同体、すなわち教会の責任を預かります。復活されたイエス様が何度も、不信感をもった弟子たちの目の前に現れますが皆は誰であるかすぐにわかりませんでした。しかし、イエス様の言葉と行い(やり方)によって、弟子たちが知らない姿の人の中に、復活されたイエス様を見出すようになります。当福音書の骨組みはおもに二つに分けられています。聖書の解説とパンを割り分かち合うことです。それに従って、復活されたイエス様との感動の出会いと、イエス様の羊を指導するためのペトロの再派遣です。復活されたイエス様は人の日常の出来事の中で働き、その中で不思議なしるしを通して自分の姿を身近に見せるようにします。今回、イエス様が大量にとれた魚のしるしを通して、自分の言葉の力をしめします。網に掛かった魚153匹は歴史の中でとても面白く解説されていました。1)数字はヘブライ語の文字にかえれば「愛の共同体」のことを示しています。2)153、当時知られた魚の種類の数であって、人類のことも示しています。3)153の数字をたすことによって、「完全」という意味をあらわれています。4)最後に、おそらくいつも自分の福音書の中で完璧を求めたヨハネが、細かいところまでイエス様のみ言葉の結果を示した数字であるということもあります。しかし当主日の典礼で一番大切にされたところは、イエス様とペトロの対話です。ペトロがイエス様の裁判中、三回もイエス様のことを知らないとした発言に対して、今度はペトロがイエス様に対して三回も自分の愛を宣言します。その宣言の中でペトロの回心もあり、イエス様の赦しも明らかにされています。同時にイエス様とペトロの間の対話は、イエス様とキリスト信者の間の対話をも示されています。イエス様は信者に確かに大きな愛を求めていますが、同時にイエス様に従う者が無償、普遍的なイエス様の愛を受け入れるように勧められています。イエス様とイエス様に従う者との関係は見事な愛、回心、赦しの間で定められています。そのようにイエス様に再び任命されたペトロはイエス様に従う者たちに、このようい指導、支え、むしろ心の命を与えるように呼びかけています。
モヨリ神父