子供の頃 。。。
冬は 崖っぷちで よく遊んだ。
近所の子供たちみんなで・・・
農家の家の 肥料袋を 一枚づつ手に持って・・
「ケツ 滑り!!」と いう遊び
要するに、そり、では なくて ボブスレーじゃなくて
肥料袋を おしりにあてて
雪のこう配を 滑り降りる!
そのうち だんだん 進化して、
肥料袋に 少し藁を入れて 柔らかくしてみたり・・・工夫する。
こんな 遊びをしていたのは 私たち くらいなのかなぁ??
のちに 貧しくて仕事ばかりさせられ、学校には 全く行けなかった父が
大工仕事が得意だったので、
手製の橇とか 竹スキーとか いろいろ作ってくれたのだった。
こんな感じで もう少し かっこよかったような気もする 💦
(あの世で 「そんなんじゃなぃ!」ヽ(`Д´)ノプンプン と怒っているかも・・)
なんにも 話さない父だった。
真面目な父だった。機械や 大工仕事は 習っていないのに なんでもやっていた。
自転車のパンクもあっという間に 直せた。
でも、お酒に飲まれる人だった。
貧乏だから 子供たち(私と姉)は 中卒で 就職させよう!と 母に言って、母を悲しませた 人でもある。
母は、自分も学校には行けなかった(開拓に入った祖父の手伝いで 手いっぱいだったから)
だから 自分が苦しんだ分 子供は 学校に行かせたい!!と頑張って育ててくれた。
貧乏な家に生まれた 私と姉は
手に職をつけるべく、育てられ、
何とか 生きていけるくらいの 職についた。
父は お酒が原因で 母と別れた。
寂しい晩年 64歳で 脳出血?かなにかで 一人で 天へ。
「最後まで お酒は 飲んでいたい。だから 施設には 入りたくない!」と言っていた。
父の家を 姉たちと 片づけたとき 以外にも
几帳面に、私たち姉妹が送った手紙や孫の写真を 仕舞っていた。
父の何冊かの 手帳に つたない字で書かれていたのは、字の練習 と
「娘よ」という 演歌?の歌詞と・・・
私の 元夫の名前 「○○の バカ」と 一言
色々と 私を苦しめていた 元夫のことを 恨んでいたんだ・・・
(私が 元夫と別れたのは 父が亡くなった次の年だった)
あぁ 暗い話に なってしまった。(;´д`)
親心は 有難い。
貧乏でも 有難い。
今は 父の子供で良かったと思っている。
毎朝 父の仏壇に 手を合わせて
「今日も一日 大切に生きるね!」というのが 日課。
(*^-^*)
母を ちゃんと 世話してけるように もう少し がんばらなきゃ