【李承晩ライン】2
🔴1956年、韓国政府は日本政府に対し、拿捕による抑留者の返還との事実上の引き換えとして、長崎県大村収容所に収容されたままとなっていた抑留者(終戦前から日本に居住していた者)の解放を要請した。
抑留者の殆どは、不法入国や在留期限切れによる不法滞在で取り締まられた者で、強制退去処分のための船待ちとして収容されていた。
この「交換」要請については、その後も何年にも渡って両国間での交渉が続けられ、また日本国内でも国会などで議論が重ねられた。
その間に韓国側は拿捕者解放の条件に日韓交渉の全面会談開催も加えた。
1957(昭和32)年12月31日に日韓による抑留者相互釈放に関する協定が締結された。
そして翌1958年、協定に基づいて日本の入国者収容所に収容中の第二次世界大戦後の韓国人不法入国者(1003人)と韓国の外国人収容所に収容中の日本漁船員(922人)の相互送還が実施された。
そして日本政府は、収容者のうち、第二次世界大戦の終了前から日本に居住していた在日韓国・朝鮮人474人を仮放免し、法務大臣による期間6ヵ月の特別在留許可を与えた。
同時に日本政府は、1952年3月6日の日韓会談で日本側代表が行った在韓日本財産に対する請求権の主張の撤回と1953年10月15日の日韓会談における久保田代表の発言を撤回した。
こうして1953年10月の会談決裂から4年余りにわたって悪化を続けていた日韓関係であったが、ようやく日韓基本条約締結に向けた交渉を軌道に乗せられることになった。
しかし締結までには長い時間を要する結果となり、その間に韓国の外国人収容所において日本人抑留者2人が死亡、日本の大村入国者収容所および川崎入国者収容所浜松分室では数十人の韓国人が死亡。
●拿捕された日本漁船乗組員が、韓国人に残虐な拷問を受けて死者が出たことを忘れてはならない‼️
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