あんずの流れゆく日々♪

光陰矢の如し。
飛ぶように過ぎ去る日々を
大切に&楽しく&悔いなく。
鳥や猫との触れ合いを綴った画像日記♪

向田邦子さんの随筆&吠える文鳥(^^♪

2018-04-17 09:06:42 | 文鳥
向田邦子さんのエッセイで

何度読んでもほろっとするのが

「字のない葉書」の後半の部分。

親の気持ちが痛いほど伝わってくる・・・。





お時間があったらどうぞ。



           ↓

    
終戦の年の4月、小学校一年の末の妹が
甲府に学童疎開をすることになった。
すでに前の年の秋、
同じ小学校に通っていた上の妹は疎開していたが、
下の妹はあまりに幼く不憫だというので
両親が手離さなかったのである。





ところが三月十日の東京大空襲で、
家こそ焼け残ったものの命からがらの目に逢い、
このまま一家全滅するよりは、と心を決めたらしい。

妹の出発が決まると、暗幕を垂らした暗い電灯の下で
母は当時貴重品になっていたキャラコで
肌着を縫って名札をつけ、
父はおびただしい葉書に几帳面な筆で
自分宛ての宛名を書いた。





「元気な日はマルを書いて、
毎日一枚ずつポストに入れなさい」
と言ってきかせた。
妹は、まだ字が書けなかった。

宛名だけ書かれた嵩高な葉書の束をリュックに入れ、
雑炊用のドンブリを抱え、
妹は遠足にでも行くようにはしゃいで出かけて行った。





一週間ほどで、初めての葉書が着いた。
紙いっぱいはみ出すほどの、
威勢のいい赤鉛筆の大マルである。

付き添っていった人のはなしでは
地元婦人会が赤飯やボタ餅を振舞って
歓迎して下さったとかで
南瓜の茎まで食べていた東京に比べれば
大マルに違いなかった。





ところが、次の日から
マルは急激に小さくなっていった。
情けない黒鉛筆の小マルは遂にバツに変わった。

その頃、少し離れた所に疎開していた下の妹が
下の妹に逢いに行った。
下の妹は、校舎の壁に寄りかかって
梅干の種子をしゃぶっていたが、
姉の姿を見ると種子をペッと吐き出して泣いたそうな。





間もなくバツの葉書もこなくなった。
三月目に母が迎えに行ったとき、
百日咳を患っていた妹は、虱だらけの頭で
三畳の布団部屋に寝かされていたという。





妹が帰ってくる日、
私と弟は家庭菜園の南瓜を全部収穫した。
小さいのに手を付けると叱る父も
この日は何も言わなかった。
私と弟は、一抱えもある大物から
掌にのるウラナリまで二十数個の南瓜を
一列に客間にならべた。
これぐらいしか妹を喜ばせる方法がなかったのだ。





夜遅く、出窓で見張っていた弟が、
「帰ってきたよ!」と叫んだ。
茶の間に座っていた父は、裸足でおもてへ飛び出した。
防火用水桶の前で、痩せた妹の肩を抱き、
声を上げて泣いた。
私は父が、大人の男が声を立てて泣くのを初めて見た。





あれから三十一年。
父は亡くなり、妹も当時の父に近い年になった。
だが、あの字のない葉書は、誰が、どこに仕舞ったのか、
それとも失くなったのか、私は一度も見ていない。


                  

ちなみに下の妹さんの名前は和子さん。

私も和子よ。って、関係ないか。


おまけは吠える桃太郎。





お前はオオカミか?





だって・・・





吠えたいんだもん。