四大臣就任祝賀会寄書昭和十八年六月十九日祝賀会
同窓会報の発行は第八代溝渕校長のとき、色々の会合で五高卒業生が席を同じにしても卒業生間で連絡機関がなかったのでお互いに顔を知らないので、そのあたりを改善しよう、先輩は先輩として後輩を引き立てて、後輩は後輩として先輩の教えを請うと言う目的で同窓会は設立された。それは五高開校後四十年を経過した昭和五年のことであった。前述のように卒業生の間で連絡機関がなかった為に席を同じにしても、互いに五高卒業生であることを知らなかったりすることが起こりがちで、このときまでの卒業生は約八千名、既に日本社会の柱石となり日本の指導者たる立場になった者が数多く見られと、会長(校長)の挨拶の中に、その設立理由が説明されている。それから十年、日本は第二次世界大戦に突入し、さてはアメリカ空軍の内地空襲も始まりいよいよ日本国民は窮乏生活に追い込まれて行った。物資の統制で一般庶民もとより学校にもその波は襲いかかり会報の発行さえ困難な状態になり、編集者に関係する者はじめ徴兵されたり発行する人も居なくなって仕舞った。この十七号の山田・和田 両先生の編集後記を転載すれば・・・特に同窓会本部では財政不足(資金)してどうしても首が廻らなくなったが・・十七年十二月二十日付けで「規則改正案」を討議し二十七日「案」通り決定し、ここに五高同窓会の財政的基礎が確立されたのでした・・・・・五高同窓会も、今少し財政に余裕が出来て前途の見込みさえ立てば、少なくとも一時払いの会費くらいを基本金として、別途に積立てて行く様にしたらと思います(会報に関する要点のみ)と書かれている。しかしついには第十七号会報は出ず、同窓会報は廃刊になってしままい、そして終戦を迎えることになった。その後昭和二十三年には同窓生名簿は発行されている、次に五高に関する会報「全国五高同窓会報」が約四十年後の昭和五十五年に東京五高会を中心として創刊されるまで、卒業生の詳細な消息はわからなくなっていた。最後の会報にはどんな事が書かれていたかを表すため目次を掲げて見ると以下のようなことであった。(tH)、
会報 第十六号 S十八・九・二十発行 五高同窓会
四大臣就任記念祝賀寄書、四大臣・後藤文夫・山崎達之輔・重光葵・大麻唯男 支那事変戦没者慰霊祭報国 学校たより 総務 習学寮 阿蘇修養道場 各部たより 剣道、弓道、陸上、山岳、水泳、野球、庭球、排球、籠球、蹴球、 闘球、ホッケー、銃剣道、馬事訓練、通信航空機甲、弁論、音楽学校記事 五高会通信 熊本、牡丹江、上海、台北、仙台、新京、京都、 京城、奉天、 東京 昭八文甲三、満州たより
編集後記