五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高が出来た頃に思いを馳せて

2010-02-13 04:28:54 | 五高の歴史
                

                五高の中門       


                      
                 
               配布されたテキスト

 
 昨日はさわやか大学の講座で講師幸山熊本市長の「政令指定都市・新幹線開業に向けた熊本市のまちづくり」~湧々都市くまもと~の話を聞いてきた。その中のまちづくりの重点的取り組みになかで(1)「くらしわくわく」は医療環境、(2)「めぐみわくわく」は教育環境(3)「おでかけわくわく」交通環境、移動手段、交通センターは熊本の中心地にある、しかし大病院等は殆ど市の東部に集中しているので横との充実だそうで、試験的に東バイパスライナーという循環バスが設定されている。そして(4)「出会いわくわく」では、おもてなしの心でということで熊本城を中心とした熊本のブランド宣言等々の解説があったが、その中で私の興味を引いたのは(2)の教育環境である。受け皿となる熊本大、熊本学園大、崇城大、その他の大学等々への県内の高校卒業生進学率は42%位であるが、就職先が県内ではすくなく雇用の場の確保が必要である事の話であった。新幹線が開通すれば、博多まで30分で行けるという。そうなれば買い物でも福岡の商店街に出掛けるものが多くならないかと早くも危惧されているが、・・・。
 五高が熊本に設置された時代を思い出して見よう、明治20年に九州の中心地であるという事で森文部大臣の命令で設置されたのではなかったか! 国立大学も独立行政法人になり、熊本大学も独自の特色を出すよう色々の試みが為されている。五高記念館がユニバーサル・ミュージアムの格としての存在している事はその証左であろう。新幹線が出来れば一般市民は買い物に博多へ行くものが在るかもしれないと同様、福岡の大学へ通学する学生が出てくるかもしれない。
 そのような事を考え道州制の導入で熊本を州都にするように県も市も努力されているとか、さわやか大学の学生である我々に取っての時代はもう長くはないとの思いをはせ、幸山市長は昭和四十年生まれだそうで、我等と比べて四十年もの時代差があるとの事に考え合わせて、特にそのような感じを思った講座であった。(tH)


藤本充安氏談 第一回 一部法科卒業
 この間の同窓会報に、創立五十周年記念についての生地が見えていたが、母校ももう知命を迎えるのかと思って真っ白になった髪を撫でながら、感慨に耽った次第だ。
私は籍は熊本だが、幼時は長崎の祖父の下で漢学を叩き込まれ、後熊本に転じて、五高に入学するまでは大江義塾に学んでいた。五高卒業以来は殆ど熊本を訪れる機会がないが、大江義塾の跡も今は無くなって、電車が通って居ると聞く、大江義塾は徳富蘇峰さんが主催して居られたので当時としては中々進歩的な気分に満ちていた。こう云ったら君等は驚くかも知れんが男女共学だったのだ。尤も男女共学といっても、。今の幼稚園や小学校の様に男生徒と女生徒が同席して勉強していた訳ではない。男生徒に講義がある間は、どんな厳寒でも女生徒は教室の外に立たされ、授業がすんで若干の休みになった時、急いで黒板からノートを取ると云う惨めな待遇を受けたものだ。「男女七才にして席を同じうせず」だね。茲で暫らく勉強して居る中、全国に高等学校が設置されるとの議が伝わり、熊本にも第五学区の高等学校が設けられるとの事だったので、我々も大江義塾を退いて、その選抜試験に応じた。入学試験では色々面白い話があるが、前に述べた事があるので略する。創立当時の母校の事を回想すると、「この学校の将来は我々の双肩にかかって居るのだ。」と云う新興の意気、開拓者の気魄が先生生徒の間を一貫して渾然たる気分を生み出して居た事を強く感じる。あのすべてが一丸となって居る愉快な力強い気分は、二度と味わう事が出来ない。私の龍南生活と切り離す事が出来ない思い出は秋月葦軒先生の御教訓だ。私は元来文科に入って哲学を修めたいという希望を持っていたのだが、親の言葉に従って本科入学の際は法科に進んだ。然しどうしても法科の課業には興味が湧かず、そんな訳で色んな運動に熱中する事となり、まそのお陰で今日まで生きながら得る結果にはなったが、課業の方は面白くない。それで大学に進んで後逐々決心して文科に応ずる事にし、葦軒先生に御相談した、所が先生は、「治国平天下こそ士の本分也」との立場から、懇々と私の心得違いいを諭され、宣してく家庭の希望通り法科に進んで、将来政治の要路に当るべしと訓えられ、私も御忠告に従って、初志を翻す事になった。「虎視耽々、其欲逐々」の一句だ。まあこんな話は特別珍しくもなかろうが、この後が葦軒先生の真面目を教うるものがある。私が大学に帰った後も、この一句を座右の銘として居った事は勿論であるが或る日突然葦軒先生から再び「虎視耽々、其欲遂々」なる一書を送って下さった。面白い事をなさるなあと思いつつ気をつけて見ると、前の「耽々」が「耽々」となって居る。数年を経た後誤りに気注かれたのか、其れを態々別紙に書き改めて送って下さる葦軒先生の誠実に、全く頭の下がる思いをし、その高風清節に一段の敬慕の念を加えた次第だ。
私は五高がその創立時代に、他に有為の先生方が居られた故も勿論だが、秋月先生の如き高潔なる人格者を得たと云う事が、剛毅木訥の龍南精神を打樹つる上に、大いに興って力のあった事を信じて居る。最後に五高の卒業生、及び在学生に対する私の希望を延べて見よう。一は今後も最も必要な人材を、五高から益々輩出せしむる一方、現在少壮有為の五高出身者が、今日先輩の開拓した跡を追うて、どしどし要路に発展しようとの希望である同時に大先輩も後輩を指導する事に、大いに意を用いて欲しい。
次はこれ等の人材が、現代の世相是正の為一致団結して龍南精神の発揮に努める事を希望する。私は調子の浮いた今の世相を見る時、剛健と自由の信念に生き、どっしり腹を養った龍南人が団結して、之をリードして行く事が必要だと思う。閥を作るとの非難を受けてもいゝ。兎に角龍南人でなくては駄目だから、最後に今の在校生諸君が、九州男児の本領を忘れず、都会の浮華の風に酔うて私等先輩を失望させる事なく、飽く迄剛毅木訥の精神に生きて貰うよう


藤本充安について   
龍南会の初代総務、八代出身、五高在学中は人円主義を唱えて龍南の思想界を牛耳った。「人円主義とは凡そ人たる者は何事にも円満でなければならぬ。人と争闘等するが如きは甚だよくない。人は宜しく円い角のない人格を所有し、又所有する様に努めねばならぬ」と云う主義思想を唱えた。寄宿生を二つに分けて武夫原でフットボールをやらせるなどで体育で鍛え食堂の自治制度も作った。明治二十九年東大を卒業して地方官となり奈良・京都の部長として敏腕を振い,秋田県から香川県の内務部長・高松市長等歴任した。(五高人物史参照)