五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高の野球部

2010-02-12 03:14:13 | 五高の歴史
五高の野球部について明治三十七年卒業の後藤文夫氏の思い出を掲げたが、ここではその十二年前即ち明治二十五年卒業の武藤虎太氏の「ありし日の思い出の」一節を転載する。
「明治二十年頃は中学でもベースボールが創められていたので、五高にも野球部の一団が有った併し器具と言えばバットとボールとシートだけでマスクもミットも脛当も胴もない皆徒手空拳で打つ摑むので、随分危険であった。而も鉛を包んだ皮張りの球で捕捉も容易でなかった。殊に規則とてとても詳細の規定はない。ファウルは何度やっても三打の外で時間の掛かること夥しい。デットボールだからとて一塁を取る利得もなく結局打たれ損である。バントだの犠牲打などと言う小悧巧な方法も知らぬ随分未熟なものであった自分は一度古城内の球場で二塁手となった。折しも真向こうから日光直射して打者の球を受け損じ鼻下に中りその場に卒倒し上顎の歯二本が折れた。今も前歯二本は接歯である。」
先の後藤文夫氏の野球部の思い出と比較しても十二年も経過しているが、野球の技術は兎も角として器具も余り発達しているとは見えないところを見れば、やはりアメリカからの輸入スポーツで、日本ではまだまだ特定の人たちのスポーツであり、一般に普及するまでは後四十年待たねば成らなかった。



武藤虎太について  
一回の五高入学生として本科に入学出来たのは成績優秀であったことである。栄誉ある五高第一回の入学生でありまた第一回の卒業生であった。そして校風「剛毅木訥」の学風を造り上げた。「剛毅木訥」の生みの親ともいうべき中心人物であった。