五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

本田増次郎教授について

2011-07-06 03:58:08 | 五高の歴史
火曜日は従来からの通り五高記念館へ顔を出している。この欄で何回か言ったが「貴方は五高記念館には何時いますか」という声をよく聞いたので午前十時から午後二時までは資料室に在室するように努めている。朝は九時三十分過ぎには整理室に到着する様にしているが時間が経つことは早い。午後二時までは在室するが早い話資料を見ようなど全然出来ない。来週はこれを見ようとか、あれを見ようと計画は立てているがなかなか実行は出来ない。

今度の観光ボランテイア研修でリデル・ライト記念館を勉強して見ようとの話であったので、五高の関係者本田増次郎について調べてみることにした。この先生について色々研究している人も多いようであるが、俺が今まで集めたこの先生に関することを以下に列記してみる。

本田増次郎が五高来たのは嘉納治五郎の時代であり英語の先生であったこと。
リデルが回春病院設置に奔走しているとき敷地の提供してやったこと。
増次郎の土地の提供はリデルとの無償契約で999年であったこと。
土地は現在の大甲橋の近くにもあったこと。

本田増次郎は明治24年から26年4月の短い五高教授時代に、ハンナ・リデルに会いハンセン病患者救済のために病院建設したいという理想に共鳴し外国人は土地を得ることができなかったので、リデルに代わり土地購入に協力している。回春病院の評議員として生涯協力している

これらのことは管財の仕事をしていたときこの記念館を訪れ土地の登記簿が展示されていたのでそれを見させてもらったものであり、その後この土地の問題について聞いたところによると999年の無償貸付契約はあまりに長く、また土地面積も広く記念館の方では十分の管理が出来ないので土地の利用について家裁に調停をお願いしどうやら調停が出来たと言うことであった。