特に「みるトクくまもと」(街かどスケッチ/薬用資源エコフロンテイアセンター)の紹介では地元熊本市民でもこの場所を余り知った人も少ないのではないかと思う。熊本大学の宣伝と言うより熊本市の紹介として今後の企画でこのような施設の紹介を希望したい。センター長矢原正治先生の話を交えて説明してみる。
薬用資源エコフロンティァセンターの歴史を照会すれば宝暦の改革で有名な細川藩第六代藩主細川重孝は自分の藩民が病苦に苦しみ天寿を終えないで世を去るものが多い事を不憫に思い、それを救済してやろうと、宝暦六年府内の竹部に薬草や薬木を植えて御薬園、所謂「蕃滋園」を創設した。
ここでは薬物の研究及び製造に宛てた。熊本市薬園町はその名称の名残である。薬草園は明治四年頃まで存在していたが、廃藩置県に伴い、その栽殖されていた草木等は全て細川藩より藤井家に下賜された。
その後第五高等中学校の設立に及び、中門の左右付近に植物園が出来たが、それは主として明治二十三年「御薬園」の珍しい草や樹木薬百五十種が、その保管者であった藤井家の当主歌子未亡人から寄贈されたものであり、それが熊本大学理学部植物園の基礎となり、ここから熊本薬学専門学校の薬草園に移植されたものである。
肥後細川藩の薬園”蕃滋園”(1756年開園)の流れを汲む園は,薬学部の前身である官立熊本薬学専門学校の薬草園(熊薬薬草園)として昭和 2年 (1927年) に開設された。戦前から戦後にかけて、標本園は薬学部の前庭及び記念館に位置していたが、昭和 49年 4月に東南の敷地に移転し、附属薬用植物園となったのであり、標本園は、敷地面積が 約3000平米で、濱田先生が、昭和58年から整備され、約1800種が育種されている。
薬用資源エコフロンティァセンターの歴史を照会すれば宝暦の改革で有名な細川藩第六代藩主細川重孝は自分の藩民が病苦に苦しみ天寿を終えないで世を去るものが多い事を不憫に思い、それを救済してやろうと、宝暦六年府内の竹部に薬草や薬木を植えて御薬園、所謂「蕃滋園」を創設した。
ここでは薬物の研究及び製造に宛てた。熊本市薬園町はその名称の名残である。薬草園は明治四年頃まで存在していたが、廃藩置県に伴い、その栽殖されていた草木等は全て細川藩より藤井家に下賜された。
その後第五高等中学校の設立に及び、中門の左右付近に植物園が出来たが、それは主として明治二十三年「御薬園」の珍しい草や樹木薬百五十種が、その保管者であった藤井家の当主歌子未亡人から寄贈されたものであり、それが熊本大学理学部植物園の基礎となり、ここから熊本薬学専門学校の薬草園に移植されたものである。
肥後細川藩の薬園”蕃滋園”(1756年開園)の流れを汲む園は,薬学部の前身である官立熊本薬学専門学校の薬草園(熊薬薬草園)として昭和 2年 (1927年) に開設された。戦前から戦後にかけて、標本園は薬学部の前庭及び記念館に位置していたが、昭和 49年 4月に東南の敷地に移転し、附属薬用植物園となったのであり、標本園は、敷地面積が 約3000平米で、濱田先生が、昭和58年から整備され、約1800種が育種されている。