徴兵逃れのため北海道平民になる(註)。第一高等中学校本科に進み文科大学校へ、英文科卒業の2期生の3回目の卒業生である。その後一高の教官から、松山尋常中学校の教師になり続いて五高の教官になった。丁度この時代五高では寄宿舎等の混乱期を迎えていた。(註)大江志乃夫『徴兵制』(昭和五十六年一月二十日・岩波新書)中に「北海道への徴兵令の施行は一八九六年(明治二九)であった。それ以前には本籍地を北海道に移すことに よって合法的に徴兵をまぬかれることができ、かなりおこ なわれた。」とある。
五高では新進気鋭の教授として生徒間には人気があった。漱石の授業の仕方は英語の先生で奥村政治は済々黌時代の思い出として漱石から習ったとして想い出を書いている。山形元治の授業は漱石の影響が大であると言われている。漱石は五高では校長代理として学校の運営に発言権があった。
人事面では秋田県の出身で数学科から哲学科までこなした狩野亨吉を五高教授に招聘している。その後狩野亨吉は中川校長が四高教授として向かえ、一高の校長を歴任し、また文科大学の学長を務めている。狩野は一生独身を通し、春画を収集し知の世界と性の世界を推し進めた粋のような空間があった。福岡見性寺の資料には、浅井、菅、漱石、山川信次郎、奥太一郎の一高、東大のグループが見られる。
東大、一高のエリートを集めた紀元会を創設して情報を集めた。時に中川は二高の校長であったし、狩野は一高の校長であった。山川とは草枕の旅、奥とは阿蘇二百十日の旅を行なっている。学校運営については中川校長から桜井校長へと変わっているが漱石は教頭心得として両者を補佐している。