五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

長尾槙太郎教授の復命書

2012-03-21 06:14:41 | 五高の歴史

三十日佐賀県第三中学を視る(唐津)
本校校長成富信敬氏上京中不在に付教諭柁尾氏導きて各教室を観る

倫理は四年を柁尾氏 三年以下を志田氏担任し教科書は一年に生徒心得 二年に勅語講義 其以上は論語を用ゆ

漢文は柁尾 志田二氏之を担任し 教科書には一年二年に日本外史 三年に十八史略 四年に文章軌範を用ゆ 本校も亦児島教授と共に参観せしを以って漢文授業は児島教授之を観、小官は倫理授業を観たり 

是日志田氏の二年級倫理講義を観るに 唯教科書を講義せるに過ぎず 教室中に於ける生徒の姿勢は甚だ敬粛ならず 講義の体裁も荘厳の態度に乏しくして稍虚袗の風あり倫理的実効は望み難きか如きの観あらされとも敬粛の態に乏し教師の語る所に依れば漢文文典の一班も作文授業中に加えて之を教ゆと言えり

然れども果たして十分の効果を収め得るや否やを審にする能はず但し授業方法等は出来得る丈けの注意を為さんと欲するものに似たり 

本校も校舎構造は不完全なれども教室内には生徒教師とも土足のまま入るを許す故に教室内は土埃等なくして稍清潔なれども多数の生徒室外に上草履靴等を脱しあるを以って室外廊下に靴草履等の乱雑せるは体勢甚佳ならす


上各校何れも倫理は毎週一時間 漢文は毎週三時間にして漢文教師多く倫理を兼ねる、漢文、倫理、とも各校に通して其状況を観察するに何れも授業方法は一も研究の経たるものなく在来の姑息法に止まりて十分進歩の注意の欠するものの如く 間に少しく注意せんと欲するものあるも 亦未だ其成案を得るに至らず暗中模索の姿に過ぎす故に現在のままにては此れ二科に於ける生徒の能力は進歩の域に達するの期なく他の日 新の諸学科に比すれば殆ど益に退歩に至らんことを恐るるなり教育当局者は宜しく之か適応の方法を講究するの急要なるを認む
   右復命致候也
    明治三十二年六月 第五高等学校 長尾槇太郎 ㊞
第五高等学校長 中川 元 殿

長尾槙太郎教授 漢文教授 五高在任期間 明治30年9月9日から明治32年10月31日まで、同道した児島献吉郎教授 漢文教授 明治31年8月13日から明治42年1月15日

長い復命書A4で16ページに及ぶ報告の転載が漸くにして終わった。視察した尋常中学の授業の様子を詳しく報告してある転載するだけで4日もかかってしまった

漱石の復命書

参観報告書

夏目漱石は五高の英語教師として明治29年4月赴任した。これは翌年の明治30年(1897)11月8日から11月11日までの4日間にわたって、佐賀県尋常中学校、福岡県修猷館、久留米明善黌、柳川伝習館を訪問し授業を参観した。写真の参観報告書はその時の出張復命書である。各中学校とも五高への有力な進学校であったためか各中学校の授業の様子について23ページにわたって几帳面に綴られている。漱石もこの報告について大分注意を払ったように思われ明らかに出来のよいクラスのことは教師の実名を上げて報告し、また出来の悪いクラスについては教師名を某氏また失名とするなどの心配りも見せている。漱石の五高における在職期間は7年であるが、(明治33年6月には英国に留学した)教壇に立ったのは約4年である。五高時代の漱石関係の資料は極めて少なくこれは数少ない漱石自筆>の資料である。