熊本独特の政治風土は国権主義と国家主義教育である。井上哲次郎の勅語衍義を出版 この「教育と宗教の衝突」の中で熊本に発生した。3件の教育勅語不敬事件を紹介している。
○肥後八代小学生による扇子事件・・遊びで写真を撃ち落とした。
○山鹿高等小学校生徒退校事件・・・キリスト教を布教標榜していた。
○熊本・英学校奥村貞次郎解雇事件
熊本英学校での校長蔵原維郭の就任式で教員総代奥村貞次郎が行なった演説が「眼中無国家事件」として騒がれた。この時の松平正直県知事の対応は奥村発言は教育勅語にそぐわないとして解雇命令を出した。学校側は解雇命令を受諾と命令拒否派に分裂して、拒否派は新たに「東亜学館」を同志社主任に復職した柏木義円を設立した しかし明治27年3月には統合され九州私学校と改称されたが29年には廃校になった。
柏木義円 [ 日本大百科全書(小学館) ] (1860―1938)
キリスト教思想家。日本組合基督教会牧師。越後国与板藩の仏門出身。1878年(明治11)東京師範学校卒業。84年群馬県下の小学校在職中、安中教会で海老名弾正より受洗。89年同志社普通学校卒業。同志社予備校、熊本英語学校、同女学校の教職を経て、93年『同志社文学』の編集に従事、井上哲次郎の国家主義および教育勅語を批判する。97年安中教会牧師となり翌年『上毛教界月報』を創刊。以後、終生安中にとどまり地域伝道とともに政治・社会批判を展開した。足尾鉱毒事件、廃娼問題、未解放問題、朝鮮人虐殺問題など時代批判の筆鋒は鋭く広範囲に及んだ。日露戦争以降は一貫して非戦を主張した。満州事変には撤兵論を唱え軍部攻撃を行ったため月報はしばしば発禁となる。1935年(昭和10)安中教会牧師引退、翌年月報を459号で廃刊。「愚俗の信」に徹する立場から非戦、平和、信仰の自由を訴え続けた生涯は、近年改めて注目されている。 執筆者:高野清弘
熊本県下は国権党の影響が強く、時の政府に対して、吏党の立場に立っていた。九州日日新聞社は熊本国権党の機関紙であった。
中川校長の文部省に対する対応は2月22日に文部大臣の命令により暴風雨をついて上京している。
不敬事件の文部省出頭の様子中川元日記より
明治32年2月22日
至急文部大臣より上京を命ぜられ出発せんとす
本日は暴風に付門司より出船覚束ならんと云うに由て一日延引の筈暁方風止む
23日木曜日9時8分池田を発す。仙川余田両氏来る、新橋迄上等切符を買う、山陽線は半額割引あり故、拾七円四十銭許にて東京まで、門司本町茶圧に引入れられたり、伊藤へは病気の為三津け濱へ参り居よし、夜十時春日丸に乗込む、海上静穏、船中客多くして上等室に入るを得す、中等室の一隅に独り身を容る小雨
25日快晴、静岡には5時半なり、冨嶽の白芙蓉を望む快々吉々、午前11時30分頃新橋に着す、荷物到着せす閉口す。夫より人車を馳せて榎本館に投す九郎来る、田総来る。
樺山秘書官に問合せを発す、不在故柳田次官を訪問して彼独逸人事件を細話して帰る、夜11時大臣は高田の自邸に於いて10時に面会すると云う。
26日晴8時半頃人車にて高田に趨く、大臣に面会して彼事件を詳細に語れり、大臣大に安堵して種々教育上の談話をなせり、帰途寺田を訪ふ、あらす久保田を訪ふ在宅不図、寺田にも面会す。狩野を訪ふて松本氏のこと等談合す、久保田氏を訪ふたるも松本氏の事、第一,二在り 帰来気分悪敷臥在処銕弥来たれり、今朝も来たりたれとも、出発にして一挨拶なしたりのみなり、此夕は晩餐を共にせり、熊本の桜井中川へ電報書状差出したり
電信文 ミコミノトオリアンシンセヨ アトテガミ
銕弥来訪す晩食を共にし種々物語す、今宵は頗る疲労を覚えたれば食後寝に就く柏田氏へ書状を差出たり
28日曇 本省に到り寺田、沢柳等に面会す夫より大臣次官を其官邸に訪ひ一旦帰舎す高嶺氏来訪松本氏を懇望せられる断然謝絶せり 夫より食事をなし貴族院に到り上田万平氏に面会例のことを語り、且つまた松本氏を周旋する事を断然謝絶せり 本日銕弥来たり、昨日海軍技師の辞令書来たりと云う 明日出発の電報を桜井教授及び宅又七郎方へも出す宅より書状来たれり直ちに返書出す 夜来狩野氏来訪せらる、田総夫婦来訪真綿を送らる雨来る
漱石の感想は狩野亨吉への手紙の中で外人事件喧嘩事件とまで大事に至らなかったのは何よりであり比較的穏便に収まったのはよかった。しかし首相山形有朋の対応は厳しく中川校長は4月8日の命令で譴責処分を受ける。漱石にとっては思いがけないことであった。この政府の姿勢は教育勅語体勢を堅持する事に困難と危機感を募らせていた。
それは明治27年に改正された日英通商条で領事裁判権を失った代わりに内地雑居が許されて事に政府はキリスト教及びキリスト教の発展に対し危機感を募らせ明治32年文部省は訓令を出し私立のキリスト教学校を弾圧した。
熊本の不敬事件の実態は八代高等小学校による扇子事件は雀騒ぎの事件であったし奥村貞次郎解雇事件は「眼中国家なし」は本人は発言していないと言っている。英学校の例にもある様に知事は容認している。
すべて博愛主義で五高での不敬事件も教育勅語に対する法律違反事件とは言えないことでこの時代は条約改正にともない治外法権であった領事裁判権が日本に移った。国論はひいきの引き倒しになり礼式は決まっていなく行為と動機、礼法を作るため制令こそ急務であると趣旨を述べている。
文部省の訓令でキリスト教に圧力をかけている。キリスト者による不敬事件等の新聞の糾弾は「国体に不適合である」との前提に立ちメディアよって構成されたもので、何れも法律に触れるものはなかった。中川校長は譴責処分を受けたが、ドイツ人教師については処分は行なわれていない。
漱石と親しかった外国人教師はファーデルとブランデムである。ブランドムは伝道会社の宣教師で明治20年5月から熊本の布教活動の責任者であった。漱石の推薦で五高教師m31・9から32・3月まで務めた。花陵会館の定礎式に尽力している。資金400ポンド寄付 しかし精神障害をおこし長崎の礼拝堂に監禁された.療養のため日本船で香港へ向かう途中心臓発作で死去した。
ブランドムはリデルとノットは熊本へ布教の為来熊した時迎えた。リデルは布教よりハンセン病患者の救済活動に情熱を燃やしたのでブランドムとの関係が悪化して神経衰弱が酷くなっている。
リデルは五高教壇に立ったことはなかった。漱石との関係はプロイセン号で英国に留学する時ノットの母親に呼びかけられ、イギリスに行くからよろしくとケンブリッジ大学関係者への人に紹介状を依頼している、
漱石の功績は五高への外国人教師招聘、教師として漱石は学校に尽くしている。スウィートは龍南会雑誌95号にフットボールの遊戯についてを寄稿している。