五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

熊本大学の発足へ

2013-08-16 18:22:41 | 五高の歴史
十月十日の第六十一回五高開学記念日には例年の如く各種の行事が行われている。このときのエピソードを一つ 習学寮は開校以来五高の中心としてリーダーシップを取って来たのである、寮の公開に当っては各々自分たちの部屋を考想の下に飾るのであるが、一寮二十三室だけは公開前日になっても何もしなかったという。その上総代以下がブンブン怒っていた。夜半その部屋の清水氏以下の有志は市内の目ぼしい看板を集めて、公開当日になり皆をアット言わせた。北署、自由党県支部,尚絅校,ホテイ書林等十数枚を一夜で集めて来ていた。後になって清水氏は北署から呼び出しを受けて始末書を取られたが説教されたという事実もなく署長と世間話をして帰ったという事であった。なお集めた看板を返しに行くときには包帯を巻いていったということである。

総代選挙は二十二年には立候補制の選挙と決定したものであったが、その後半年毎に行われた総代選挙には、何れも寮生の無関心で仕方なく委員の互選で決定していた。

2月23日 総合大学誘致で初の協議会開かれる。熊本医大など4校と県側が五高でぜひ総合大学を 総合大学誘致を目指す五高、医大、工専。薬専、の学校関係者や学生の運動が続けられた。「南九州の文化・教育の発展のために絶対の総合大学の誘致が必要」と主張する学生は熊本市の繁華街に立ち、メガホン片手に市民の署名を集めた。
3月22日 五高の最後の合格者発表第一高女の女子4人が合格初の女子の五高生誕生
7月 2日 熊本総合大学の設置が内定された
9月 2日 森戸文相が熊本総合大学設置の事前視察のため来熊、
10月 4日 五高で学生自治会結成される。不法弾圧反対、授業料の延納など決議、
11月 1日 五高、医大で総合大学設置試案に反対する学生大会が開かれる。熊大発足

昭和二十三年の習学寮は飯尾一寮総代が辞任退寮したことであると、そして昨日紹介した飯尾総代の記した最後の総代日誌が紹介されている。
続習学寮史に依れば、「ただ己の生活を愛したいと言っていたが習学寮も立派な男を失ったものである。」と紹介されている。

二十四年五月三十一日第十三代竹内校長の転勤に伴い河瀬嘉一教授が十四代校長に、第五高等学校十四代校長に就任したが、法文学部長事務取扱も兼ねていた

学制改革により五高、習学寮生はバタバタした生活している。二十三年四月二十一日には学生大会が開かれ授業料値上反対決議以来闘争を続けて、一学期の試験中続き全国ストに突入した。六月二十五日、二十六日の考査中に拘らず決行されている。

寮生日誌から「吾々は負けた日本の現実の姿を凝視せねばならぬ、若き理性に強き情熱の意気に燃える学生のプライドを以って真剣に、冷静に!吾々は理想の意気込みにもえ立っているが故に現実に対しては厳正である。世の中を正しく批判出来るのも吾々だ。軍閥に代わって私服を肥やさんとする徒党輩の堕落ぶり、国民を欺く代議士共、口に民主主義を唱えながら人民を苦しめる各界のダラ幹共,神聖たるべき教職を蔑にしている教育者たち、アメリカのお先棒をかついで浮身をやつす売国奴共、加えて自覚の足りない町の伊達男に伊達女共、更に社会に超然としてどこ吹く風かと済ました書生達、純真たるべき子供等のすさみ汚れ行く様・・・・これが日本の表面の一度一皮脱いだ姿だ。全く滅亡の底へ踏み込んでいる。かくの如くして推移せんか、後はわかっている。然し判った様な顔をして実際には判っていない。吾々はこのレプラ菌に妥協することを否定するならばその中に飛び込んで自分の態度を積極的に前進させるのだ(以下略)