写真が趣味です。

風景と花の写真を主に!

長良川鵜飼

2006-06-02 21:37:56 | 写真
岐阜城を見物の後長良川河畔の宿「十八楼」に入り、夕方から鵜匠の説明を聞いた後、屋形船に乗船して、宴会をしながら鵜飼が始まるのを待ちます。
7時15分花火が上がり鵜飼が開始されます。
最初は松明を掲げた鵜飼舟が屋形船と併走する形で鵜飼の様子を見られます。

鵜飼は漁師が鵜を遣い魚を捕える漁法で、およそ1300年ほど前から行われていました。伝統漁法を今に伝える鵜匠は世襲で受け継がれ、長良川には現在6人います。正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、長良川の鵜飼用具一式122点は、国の重要有形民俗文化財に、長良川鵜飼漁法は岐阜市重要無形民俗文化財に指定されています。
織田信長や徳川家康など時の権力者たちの保護を受け、俳聖・松尾芭蕉も「おもしろうて やがてかなしき 鵜舟かな」という有名な一句を残しています。
鵜飼の圧巻「総がらみ」は、6艘の鵜舟が横一列になり、浅瀬に鮎を追い込み巻き狩りをする漁法のことで、「ホウホウ」とかけ声をかける鵜匠と、鵜、そして鵜舟が一体となって鮎を追い、鵜飼はクライマックスを迎えます。




鵜匠の親子、代々世襲との事この少年は小学校4年生、衣装の頭巾は松明の炎で髪の毛が焼けぬ様、この写真では見にくいのですが前垂れも炎が襟の間から火が入らぬ様、又黒尽くめは鵜を驚かさないため、足には川底で滑らぬ様又、水の抵抗を少なくするため半分位の大きさの草鞋を履いていました。




漁場へと向かう

















全て EOS20D+EFS17-85mmF4-5.6IS USM


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岐阜城

2006-06-01 22:30:49 | 写真
大学時代の同期会が岐阜で行はれ東西から総勢18名が集まり盛会でした。

正午に岐阜駅に集合、昼を柳ヶ瀬で櫃まぶしを食べ岐阜城を見物しました。

鎌倉・室町時代
1201年に、二階堂行政が山の上に砦を築いたのが始まり。その子孫の稲葉光資が砦の主となり支配この事から「稲葉山城」と呼ばれるようになった。二階堂行藤の死後、廃城となる。

15世紀の中頃、美濃の守護代であった斎藤利永がこの城を修復して、居城とする。

戦国時代
1525年、斎藤家の家臣であった長井長弘と長井新左衛門尉が謀反を起こし、稲葉山城を攻撃。長井家の支配下となる。1533年長井新左衛門尉が没すると、その子、斎藤道三が後を継ぎ、城主となる。

1564年、斎藤家の家臣であった、竹中半兵衛重治と安藤守就が造反し、挙兵。稲葉山城を攻める。斉藤龍興らは城を捨て、竹中らが城をしばらく占拠する。

1567年、予てから美濃攻略を狙っていた織田信長が木下藤吉郎の活躍により稲葉山城を攻略。信長は地名を岐阜と改め、城の名前も岐阜城とした。

1582年、城主であった織田信忠が本能寺の変で倒れると、家臣の斉藤利堯が岐阜城を乗っ取る。しかし、明智光秀が羽柴秀吉に敗れると、降伏。

1583年、羽柴秀吉に反発した織田信孝は、柴田勝家と呼応し、挙兵。落城する。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家も敗れる。

1583年から1591年の間、羽柴氏家臣の池田元助(元助が小牧・長久手の戦いで戦死後は池田輝政)の居城となる。

1600年、城主であった織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し、石田方につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則や池田輝政らに攻められて落城。

江戸幕府が成立すると、徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に十万石を与えて、加納城を築城させる。岐阜城が山城であることに加えて、家康がかつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を忌み嫌った(徳川氏に代わる天下人の出現を髣髴させる)からだとも言われている。

1956年、鉄筋コンクリート建築で岐阜城を復元。地理的展望がすばらしい観光名所として有名になる。(以上ウィキペヂアより転載)




下から見る限り難攻不落の様に見えますが。




中々きれいな佇まいでした。




岐阜城より見た長良川。 橋の下流で鵜飼が行はれます。
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