今日は法華寺です。
光明皇后ゆかりの寺として、また門跡尼寺(皇族などが住職となる格式高い寺院)として知られます。
東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺であります。
法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とされました。
天平17年(745年)皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりでありました。
大和国の国分尼寺、日本の総国分尼寺と位置付けられるのは、2年後の天平19年(747年)頃からです。
奈良時代の法華寺は東西両塔をもつ大寺院でありましたが、平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺えます。
治承4年(1180年)の平 重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたと言われています。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興されました。
現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されています。
さらに、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊(えいそん)によって本格的な復興がなされました。
叡尊は西大寺の中興の祖といわれています。
その後の法華寺は明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興されたものです。
なお、兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊しました。(ウィキペディアより抜粋)
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