星月夜に逢えたら

[hoshizukiyo ni aetara] 古都散策や仏像、文楽、DEAN FUJIOKAさんのことなどを・・・。 

NODA MAP番外公演「THE BEE」  観劇メモ(1)

2007-07-02 | 観劇メモ(演劇・ダンス系)

 公演名 THE BEE
 劇場 シアタートラム
 観劇日 2007年6月24日(日) 
  16:00開演
 座席 H列


<キャスト、スタッフ>
野田秀樹:井戸
秋山奈津子:小古呂の妻、リポーター
近藤良平:安直、小古呂、小古呂の息子、リポーター 
浅野和之:百百山警部、シェフ、リポーター

原作:筒井康隆「毟りあい」 共同脚本:野田秀樹、コリン・ティーバン
演出:野田秀樹


去年ロンドンで上演された作品の日本凱旋公演。
その日本語バージョンを観劇。
上演前のインタビューで「この芝居では絶対に泣かせない」と言っていた野田
さん。たしかに泣くような種類の芝居ではなかった。でも・・・。
こんな野田秀樹を見たのは初めて。
こんな感覚を味わったのも初めて。
観劇直後は「!」「?」だったのが、数日後「すごい!!」に上書きされた。
最近の野田さんの舞台はいつもそう。観終わってから始まる。
今回も作品タイトル通り、頭の中に一匹の蜂、NODA蜂が今も飛んでいるイメー
ジ。その羽音が日ごとに大きくなってきた。
筒井康隆氏が描いた原作の世界をべースに、巧みな演出アイデアと身体言語で
まったく既視感のない舞台を見せてもらえたことが単純にウレシかったかも。
そのうえ、興味のある人のためにちゃんとナゾ解きも用意してあって、いつま
でも楽しめる。蜂のナゾについていっしょに語ってくれる人、募集中(笑)。

ここから先、ネタバレばりばりの全開です。蜂も出ます。ご注意ください!!


<かんたんなあらすじ>
脱獄犯の小古呂(オゴロ)に家族を人質にとられたサラリーマン井戸(イド)。
警察やマスコミの対応に腹を立て、今度は小古呂の家に立てこもり小古呂の妻と
息子を人質に取る。そこからはじまる報復合戦の結末は・・・。

<舞台装置、道具など>
日本バージョンは紙の使い方が面白かった。
舞台奥の上部から床前面に向かって大きく広げた茶色のクラフトペーパー。
(紙は真横から見るとL字型。)
この紙を出演者たちが手で動かし形を変えることで瞬時に場面転換となる。
また、紙に映像が映し出されたり、紙の向こうの人物をシルエットで見せたり。
カッターで紙を切るだけで壁に窓やTV画面が出現したり、紙を破れば封筒になっ
たりする。紙筒のてっぺんにキャップをかぶせただけで幼児に見立てるという荒ワ
ザもけっこうスンナリいっていた。
まさに紙を使ったアイデアの宝庫!
紙のほかには小さなチェスト、食器、やかんなどを、必要に応じて転用していた。
空間の使い方で感心したのは、人質をとった2家族の部屋の同時二元中継。
同じ部屋を使って人間の位置関係だけで距離感を出していて、電話で言い争う場面
では実際に手を出してしまうなど漫画っぽかったけれど、状況はよく理解できた。
 
ラストシーンも紙を使った演出でジ・エンド。
パンフレットにそれとなく触れていたけれど、紙・割り箸といえば、日本の使い捨
て文化の代表選手。それを重要場面で思いっきり使った最後、百百山を演じた役者
が出てきて、すべてを紙で包んでしまった。その紙の形が私には、渦高く積まれた
ゴミ山のように見えた。
その日の舞台の出来事をまるで全部まるめて捨ててしまうかのような印象だ。
さっきまで目の前でハラハラしながら見ていた出来事さえも、紙や割り箸のように
消費され、やがてはポイと捨てられる。私にはそんなふうに見えた。
毎日起きている事件や事故、戦争のニュースも同じ。賞味期限がすぎれば、ただの
ゴミ。ただ消費しているだけの毎日なのだと。

<感想>
●被害者から加害者へ

エスカレートしてゆく報復劇。まさに、目には目を歯には歯を、の構図だった。
展開は蜂の部分を除いてはほぼ原作の通り。ストーリー自体も単純で把握しやすい。
それだけに登場人物の行動や心の動きに集中できた。小さな劇場ならではの密室感
もあり、緊迫感のある舞台だったと思う。
報復なんて無意味なだけだという結論にはもちろん賛成だが、被害者が加害者へと
変貌していくプロセスには引き込まれるものがあった。(いや、それに共感しては
アカンわけでしょうけど。)
井戸が自分には被害者の適正がない、私は加害者の道をゆくことに決めた、これが
真実の私だ、と嬉々として語るところが印象的。
加害者の上をいくには自分がより絶対的な加害者にならなければならない。「それ
はいいことなのです」と、元弁論部らしく声高に語るところは不気味だったけれど。
人はつねに怒りのエネルギーを抱えていて、それを爆発させるきっかけとか、大義
名分を密かに待っているのかもしれない。
今回の井戸にはまさしくそのきっかけが与えられたのではないか、とも思った。
世の中には不幸な出会いから生まれる、偶発的な大事件だってあるのだから。

●暴力について
まず、井戸が小古呂の妻子に対して行なう虐待について。
井戸が行なう暴力にはそれ自体を楽しむような嗜好性はない。あくまでも相手に勝
つための手段なので実行すること自体に意味がある。ただし、いかに効果的に相手
にダメージを与えるか、その残忍性がポイントになる。井戸が子供の指をカンタン
に切り落とすことができるのは、それがあくまでも取引だから。惨いことをやって
いるわりに淡々として見えるのは、彼がサラリーマンでネクタイを締め、ビジネス
としてやっているからかもしれない。
やがて、ルーティーンとして同じことが繰り返されることで、観ているほうも、そ
の暴力性、残忍性が水増しされていったように思う。
井戸は犯罪を犯しつつも、日課を繰り返すことでかろうじて正気を保っているわけ
だが、そんな規則正しい生活ができるのも、やはり彼が元サラリーマンだからだと
思うとその皮肉に笑えてしまう。毎朝、髭を剃りネクタイを締めて、伝票を封入す
るように指を入れる。ある意味、滑稽でさえある。

もう一つは、マスコミの取材攻勢による暴力。
井戸がマスコミのリポーターたちの間で右往左往する様子を、井戸の体がモノのよ
うに扱われることで表現していた。またリポーターの腕をマイクに見立て、一斉に
突きつける手の先がゲンコツになっていた。これはボクサーのアッパーカットのよ
うにも見える。マスコミ攻勢がまんま暴力であることが端的にわかる表現だ。

さらに、暴力の感覚を増大させているのが音の効果。
人にショックを与えるという意味で音は一種の暴力でもある。
たとえば、小古呂の家に強引に入るシーンの紙を破る音。小古呂の妻子の指を折る
のは割り箸の音。リーン、リーンとだんだん大きくなってゆく電話の呼び出し音
(実際は百百山の声)。
リアルな効果音ではなく、フェイクでもいま目の前で立てている音のほうがビクッ
としてしまうものだと実感した。

長くなったので続きは(2)にアップします。(時間をあらためます。)

NODA MAP番外公演「THE BEE」  観劇メモ(1)(このブログ内の関連記事)
NODA MAP番外公演「THE BEE」  観劇メモ(2)(このブログ内の関連記事)

THE BEE 日本バージョン 2012年の観劇メモ(このブログ内の関連記事)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 7月分録画予約メモ(2) | トップ | NODA MAP番外公演「THE BEE」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

観劇メモ(演劇・ダンス系)」カテゴリの最新記事