貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・特別編

2022年12月27日 | 貧者の一灯

















1年以内に人工透析が必要になる…。  

静岡県の男性(67)は2014年、かかりつけ医
に告げられた。腎臓の難病による慢性腎不全
だった。  

1回4時間あまりかかる透析に週3回通う生活
への不安。根本的な治療は移植しかないが、
ドナー(臓器提供者)の少ない日本で、待機
期間は平均15年近い。

何とかならないか。思わずネット検索した。  

すると、海外で臓器移植を受ける手助けをする
というNPOのサイトを見つけた。後日、事務所
を訪ねると、担当者に言われた。  

「中国へ行きましょう」  手術費や滞在費など
すべて込みで約1700万円。

男性は同年12月、担当者に伴われて中国に
渡った。ドナーが現れるまでホテルで40日待ち、
移植で実績があるという天津の大病院で15年
1月に移植を受けた。  

帰国後、経過を診てもらおうと浜松医科大学病院
を訪れると、診療してもらえなかった。

「臓器売買の絡むような腎移植をした患者の
診療は行わない」という院内の申し合わせが
理由だった。  

臓器移植法は、臓器売買を禁じている。

渡航移植に厳しい目が向けられる世界情勢も
ある。患者数に比べたドナー不足は、各国共通。

先進国の国民が途上国などでお金を払って
臓器提供を受ける移植ツーリズムへの批判が
高まり、 国際移植学会が08年、自国の患者
は自国で救うよう求める「イスタンブール宣言」
を採択。世界保健機関(WHO)は10年、同様
の方針を盛り込んだ新指針を出した。  

以後、渡航移植は難しくなった。米国で子ども
の心臓移植など正規の受け入れが一部あるの
みという。  

男性は、診療に応じている東京都内の病院に
通い、経過は良好という。しかし、「診療拒否
は納得できない」として15年7月、浜松医大
を提訴。

「NPOに必要な費用を払っただけで、臓器売買
した覚えはない」と話す。

大学側は「コメントできない」とするのみだ。  

NPOは「必要とする患者がいて移植の道がある
なら、これからもできることをやっていく」と語る。  

NPOは、どのようなルートで中国の病院や医師
と連携を持ち、ドナーを確保しているのか。詳細
については、取材に対し、「後日、返信する」とし、
18日までに回答はなかった。

国内医療機関、警察に出頭勧めたが…  

他にも、似た状況の患者が訪れたという病院
はある。関西の国立大学病院は5年前、そう
した患者に、「臓器移植法に抵触する可能性
がある」と話して警察に出頭を勧め、初回のみ
診療した。

この大学病院の内部文書などによると、病院は
その後、最寄りの警察署にこの事実を通報した。  

東京都内にある私立大学病院の泌尿器科医も
「実態不明の団体の仲介で、中国で腎移植を
受けたという患者が来院したことがある」と打ち
明けた。  

日本臓器移植ネットワークに登録して腎臓の
移植を待つ患者は1万2000人を超える。

ドナーは脳死、心停止合わせて16年では年間
96人に過ぎない。  

国内の医療機関を介さず、独自に海外移植を
仲介する団体は、以前より減ったとされては
いるものの、いまもネット上に複数ある。

ドナー不足のなか、扉をたたく患者がいる。

どれくらいの患者が渡航しているのか、厚生
労働省や学会も実態は把握していない。












80歳で世界最高峰エベレスト登頂に成功した
三浦雄一郎さんのお話。


子どもの時は病弱で劣等生

実は、三浦雄一郎さんはもともと体が強い人で
はありませんでした。 幼少期は、病弱で劣等生、
そのため幼稚園は中退です。

小学校4年生から5年生時には結核で肋膜炎
を患い、長期入院のため一年の半分ほどは
学校に通えなかったほどだったそうです。

しかし、小学生の頃からスキーを通して、体を
鍛えていったのです。 スキーが大好きになり、
スキーができるという理由から北海道大学に入学。

卒業後は、プロスキーヤーや登山家として活躍、
60代で第一線を引退しました。

会社勤めの人も定年の時期ですし、体力を使う
仕事としては、潮時でしょう。

余命三年を乗り越える

しかし、引退後、不摂生と暴飲暴食がたたり、
身長164cmで88kgの肥満体になりました。

心臓発作を起こし、病院で検査を受けたところ、
狭心症の上、血圧は190、高脂血症で、腎臓
はボロボロでした。

医者に、「このままだとあと3年の命」と宣告され
てしまいます。

そこから、三浦さんのチャレンジ精神がムクムク
と湧き上がりました。

2006年に101歳で亡くなるまで、モンブラン氷河
の滑降という挑戦をした史上最高齢スーパープロ
スキーヤーの実父の三浦敬三さんやオリンピック
に出場した次男の豪太さんらを見て改心します。

65歳の時に、5年後の70歳でエベレスト登頂を
果たすという目標を立て、まず歩くトレーニング
から始めました。

最初は、小学生が登るような500m程度の山
でさえ、息も絶え絶え。そこで足首に重りを付け、
リュックを背負って、30分、1時間と少しずつ街中
を歩く時間を増やしていったそうです。

この「ヘビーウォーキング」というトレーニングで、
70歳になった頃には、元の体力に戻したといい
ます。

しかし、これは、三浦雄一郎が若い頃に十分体を
鍛えてあったからこそできた健康法で、一般の
人には、到底ここまで無理はできないかもしれ
ません。

世界最高峰へ

ともあれ、この不断の努力のかいがあって、三浦
さんは、2003年に目標の70歳、さらに75歳でも、
エベレスト登頂に成功します。

しかし、76歳の時にアクシデントが起こります。

スキー場で転倒し、骨盤と大たい骨の付け根を
骨折するという、全治6カ月の大けがに見舞わ
れてしまうのです。

医師からは「運がよければ歩けるようになる」と
言われましたが、三浦さんは二カ月半で退院し、
半年後にはトレーニングを再開するという強靭
ぶりを発揮します。

さらに、80歳になった直後、持病の不整脈が再発。
計4回の手術を受けて、やっと完治させています。

つまり三浦さんは、3回目のエベレスト登頂ぎり
ぎりまで、不整脈の治療手術を受けていたこと
になります。

それでも三浦さんはエベレスト登頂をあきらめず、
数々の難関を制して、2013年、ついに登頂に
成したのです。

エベレストの頂上で、「世界最高の気分。80歳
でもまだまだいける」と、晴れ晴れと語りました。

「小さな挫折や失敗を気にせず、『今日はこれ
だけやれた』という達成感を積み上げていく。

無理しない範囲で、できることを積み重ねて
いけば、やがて無理がきくようになります。」

author:三浦雄一郎












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