私のblogは2009年9月に書き始めました。
その内容には私個人のことも、たくさん含まれています。
人に聞かれたくない、書きたくない内容も書いています。
一方で神は私に、神の言葉をくださいます。
そしてそれにより、攻撃を受けて死んでしまうくらい苦しんでいると
「愛している」と言葉をくださいます。
「私は何も悪いことはしていない」という人がいます。
私が人生の中で様々なことがありながら、神の言葉を聞くことが
できることに対して、自分は何も悪いことはしてないから、
神に優先されるべきではないかという意見だと思います。
この話の先は、私が神と共に説いた法を無断で取っても良いのだと
すり替えが起こります。
「神よ、私は信仰深く、善に生きたのに何故このようなことが
起きてしまうのでしょうか」と与えられないことを嘆くということは
どういうことか、過去の歴史で聞いているとおりです。
こんな私が何で神の言葉を聞くことができ、言葉をいただけるのだろうかと
いうことですが、私は過去、1991年より前に、神の意思の下で人生を
見直した経験があるからです。
神は全てをご存じで私に言葉をくださいます。
そして後々のことですが、それは救済力と浄化力に変化していくと
聞いています。
文献にはあまり載っていないと思いますが、弥勒菩薩とはそういう菩薩なのです。
他人の悪いところばかり探して、弱みに付け込む。
そういう他人を無き者として、ユートピアの中には入れない、
自分の存在が在るように、他人の存在も在り続けます。
殺人でもしなければ、無くなりません。
そういう世界は救済力の全くない、選民的な、自分たちだけが
生き残ればいいというユートピアだと思います。