(写真は、高安寺の奪衣婆(だつえば)像)
府中宿の中心の巨大な高札場の少し先に、写真の
「高安寺」(こうあんじ)があります。
山門には、上の写真の仁王像と次頁の写真の「奪衣婆
(だつえば)」像がありました。
「奪衣婆」は「閻魔大王の妻」で、三途の川で、盗人の両手の
指を折り、死者の衣類を剥ぎ取る恐ろしい老婆です。
山門に奪衣婆の像があるのは初めて見ました。
奪衣婆の表情が怖っ~・・・!
(新宿の正受院の奪衣婆像については、
「甲州街道を歩く:新宿-2」を見てね。)
高安寺は、武蔵国の国司であった「藤原秀郷」の館跡に建立
されましたが、その後、荒れ寺となっていました。
足利尊氏が、全国に安国寺を建立した際に、修復して再建
されました。
境内の墓地の奥には、写真の「秀郷神社」があり、その横に
「弁慶 硯(すずり)の井戸」があります。
兄の源頼朝の怒りに触れ、源義経は、鎌倉入りを許されません
でした。
そこで、弁慶が、ここの井戸の水を汲んで硯(すずり)の水
として、源義経の赦免の祈願のために大般若経を書写した、
とあります。
そのとき硯の水を汲み取った井戸が「弁慶 硯の井戸」なの
ですが、弁慶硯の井戸の碑の周辺を探し回っても、肝心の
井戸は見つかりませんでした・・・
高安寺から街道に戻り、次頁の写真の「弁慶橋」跡を通って、
京王線の踏切を越えて行きます。
「弁慶橋跡」は、前述の「高安寺」に伝わる「弁慶」の伝説に
由来するものです。
暫く歩くと、街道沿いに、写真の様な長~い塀があり、その家
には、立派な銅葺き屋根付きの「内藤家の冠木門」があり
ました。
内藤家は、かつて、旧本宿村の名主を務めた地元の名家で、
敷地は三千坪もあったそうです。
間もなく、甲州街道(国道20号)に合流しますが、その先の
本宿交番の脇に、次頁の写真の1792年建立の「秋葉常夜灯」
がありました。
説明板によると、度重なる火災に苦しんだ地元民が、秋葉神社
で「火伏せ」の祈祷を行い、この常夜灯を設けたそうです。
少し歩くと、写真の「武蔵府中 熊野神社」があり、境内の
奥へ進むと、写真の復元した古墳がありました。
説明版によると、平成15年に発掘が開始され、三段築成の
上円方墳であることが確認された、とあります。
最近の発掘なんだ~。
熊野神社を過ぎると、すぐに、JR南武線の跨線橋である
西府橋を渡り、国立市の谷保(やほ)に入ります。
街道沿いの右側に、谷保の名主であり医者の家柄だった
「本田家の薬医門」がありました。
薬医門とは、前方に2本、後方に2本の計4本の柱で、門の
屋根を支える構造の門のことです。
門の脇に木戸をつけ、扉を閉めても四六時中患者が出入り
できるようにしていたそうです。
本田家は幕府の馬医者も勤めていたので、この薬医門は、
乗馬のままくぐれる造りになっています。
本田家は、新選組の土方歳三の実家と親戚関係にあり、
歳三は、書の手習いのために、毎月この家に通っていた
そうです。
本田家の薬医門の先には、江戸時代には、毎夕、交代で灯を
灯していたという、上の写真の1863年建立の「秋葉山
常夜燈」がありました。
少し歩いて、谷保天満宮前の交差点に来ましたが、交差点の
右側はJR南武線の谷保(やほ)駅で、左側が下の写真の
「谷保(やぼ)天満宮」です。
参道を歩き、階段を下ると「谷保天満宮」の本殿があり
ました。
拝殿前には、前頁の写真の天神様のお使いの牛の石像が
あります。
菅原道真が大宰府に流罪になると、道真の三男の道武は、
ここ谷保の地に配流されました。
この天満宮は、東日本最古の天満宮で、千年以上の歴史を
持ち、亀戸天神、湯島天神と共に、関東三大天神の一つです。
道真の死後、道武は、父の木像を彫り、これをここに祀った
のがこの天満宮の始まりです。
しかし、この道真の木像の出来が悪く、野暮ったい感じだった
ことから、「野暮(谷保)天」の語源になってしまった
そうです。
へ~っ!、そうなんだ、”野暮ったい”という言葉は、
この谷保(やぼ)天満宮から来ているんだ!