(写真は、芭蕉記念館分館の展望庭園の芭蕉翁像)
ようやく、県をまたぐ移動制限が解除されたので、神奈川県を
出て東京都の江東区へ向かいます。
目的地は、深川の「芭蕉記念館」で、「奥の細道・その47」
以降、コロナのために長い間お休みしていたこのブログの
「奥の細道」シリーズを再開するためです。
松尾芭蕉は、三重県の伊賀市生まれで、京都に出て俳人の
北村季吟(きぎん)に師事し、俳諧の道に入りました。
1674年、江戸へ行き、俳句宗匠として数々の作品を発表
します。
しかし、1680年、俳句宗匠としての華やかな生活を捨て、
日本橋から、ここ深川の草庵へ移り住みます。
(江戸市中の火事を避けるために、一時的に身を寄せた深川が
意外に気に入り、生涯の拠点とした、という説もあります。)
そして、この草庵を拠点にして、新しい俳諧活動を展開し、
多くの名句や、「おくのほそ道」などの紀行文を残しました。
上の写真は、地下鉄の森下駅のホームに並べられている様々な
芭蕉の顔です。
都営新宿線(または都営大江戸線)の「森下」駅で下車し、
「芭蕉記念館」へ向かいます。
森下駅のA1出口を出て、新大橋の方向へ少し歩き、隅田川
沿いの道を徒歩7分で、下の写真の「芭蕉記念館」に
着きます。(休館:第2・4月曜日)
ここ深川の芭蕉の草庵は、門人から贈られた芭蕉の葉が
生い茂ったところから「芭蕉庵」と呼ばれていました。
芭蕉が亡くなったあと、武家屋敷の内に取り込まれて保存
されましたが、幕末に消失してしまいました。
そして大正6年の台風の際、この辺り一帯は、高潮の被害に
あいますが、そのときに、何と!、芭蕉遺愛の「石の蛙」が
出土しました!
(前頁の写真は、芭蕉記念館に展示されている「芭蕉遺愛の
石の蛙」)
それを受け、当時の東京府は、石の蛙が出土した場所を、
「芭蕉翁古池の跡」として指定しました。
その後、江東区は、昭和56年に、石の蛙が出土したゆかり
の地に「芭蕉記念館」を、平成7年に、隅田川と小名木川に
隣接する地に「芭蕉記念館分館」を開館しました。
「芭蕉記念館」には、芭蕉が着用していた袈裟や、直筆の
書など貴重な品を収蔵・展示しています。
平日の午前中のせいか、来館者は、私以外は親子連れの1組
だけでした。
また、敷地内にある日本庭園には、上の写真の「古る池や
蛙飛び込む 水の音」の石碑や、下の写真の「草の戸も
住み代わる世ぞ ひなの家」の石碑があります。
(句意は、この本文の末尾をご参照下さい。)
更に、本庭園には、芭蕉の俳句にちなんだ草木や花が
植えられています。
芭蕉記念館のすぐ近くに、「芭蕉遺愛の石の蛙」が出土した
場所に建つ「芭蕉稲荷神社」がありました。
行ってみると、驚くほど狭くて小さな神社でした・・・
芭蕉稲荷神社から、川沿いの道を左に3分くらい歩くと、
写真の「分館史跡展望庭園」(芭蕉記念館分館)に着きます。
小名木川が隅田川に合流する位置にあるこの小公園には、
写真の「芭蕉翁像」があります。
案内板によると、この芭蕉翁像は、17時になると、隅田川に
向かって像が回転し、22時までライトアップするとあり
ましたが、どの様にして回転する仕組みなのか、よく分かり
ませんでした。
分館史跡展望庭園を出て、次に、芭蕉が「おくのほそ道」の
旅へ出発した地である「採荼庵」(さいとあん)跡へ
向かいます。
小名木川の万年橋を渡り、清澄庭園の前の道から清澄通りに
出て、通りを南下、仙台堀川に架かる写真の海辺橋を渡ると、
橋のたもとに「採荼庵」(さいとあん)がありました。
海辺橋の脇には濡縁に腰掛けた旅姿の芭蕉像が設置
されています。
ここには、芭蕉庵跡碑や、奥の細道旅立参百年記念碑なども
建っていました。
「採荼庵」は、芭蕉の門人である杉山杉風(さんぷう)の別宅
でした。
芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前に、それまで住んでいた
隅田川と小名木川の合流地点の岸辺にあった芭蕉庵を手放し、
門人の杉山杉風(さんぷう)の別宅に厄介になったのです。
荼庵に芭蕉を住まわせた杉風は、日本橋で幕府御用の魚問屋を
営み、豊かな経済力で芭蕉の生活を支えていました。
芭蕉は、ここ採荼庵で、「草の戸(と)も 住み替わる
代(よ)ぞ 雛(ひな)の家」の句を詠みました。
この句から分かる様に、芭蕉が立ち退いた後の芭蕉庵は、
女の子のいる家族が移り住んだみたいです。
1689年、芭蕉は、ここ採荼庵から、「おくのほそ道」の旅へ
出発しました。
仙台堀川に浮かぶ船に乗り、隅田川を遡って千住まで行った
のです。
採荼庵を出て、清澄通りを戻ります。
お昼は、清澄通り沿いの写真の「蕎匠」で、「深川御膳」
( 1,750円)を食べました。
写真の様に、二八せいろ、ミニ深川めし、天ぷら、小鉢付き
です。
(深川界隈の散歩については、「本所・深川界隈」を見てね。)