(写真は、敦賀にある天狗党の首領「武田耕雲斎」
の銅像)
今回のテーマは、江戸時代の最大の惨劇「天狗党
の乱」です。
幕末の1864年、「天狗党」を名乗る水戸藩の過激
攘夷派60名が幕府に攘夷を迫るために、筑波山で
挙兵しました。
これに対し、幕府は、高崎や古河など諸藩連合の
6,000名の討伐軍を差し向けます。
しかし、天狗党は、この討伐の大軍に夜襲をかけ、
何と!、大勝利を収めます。
この後、天狗党は、水戸藩の家老・武田耕雲斎に
率いられ、自分達のお殿様である「一橋慶喜」に
陳情と弁明を行うため、京を目指します。
この天狗党は、討伐軍を次々に打ち破り、
約1,000名にまで膨れ上がりました。
天狗党は、大砲10門などの火力を持っている
うえに、交戦馴れして徐々に強くなっていきます。
これに対し、平和ボケした諸藩の連合軍は、極力
交戦を避けようと弱腰です。
真冬の中山道を京へ向かう天狗党は、信州の
「和田峠」では、松本藩と高島藩(諏訪)の
連合軍を打ち破ります。
(信州での「和田峠の戦い」については、
「中山道を歩く・和田峠」を見てね。)
更に、中山道を進みますが、弱腰の討伐軍の
諸藩は、遠巻きに包囲しながらも、なかなか
戦を仕掛けようとはしません。
やがて、天狗党は、大砲を担ぎ、病人を戸板に
乗せての過酷な雪中の行軍となります。
そして、バスで行く「奥の細道」でご紹介した
「今庄宿」を通過し、「木の芽峠」を越えて、
敦賀の「新保(しんぽ)宿」に入ります。
このとき、天狗党を包囲していた討伐軍の
総指揮者は、何と!、天狗党が自分達の
お殿様と慕う「一橋慶喜」でした。
天狗党の面々は、お殿様の「一橋慶喜」が、
自分達の誠意を汲んでくださるものと信じて、
ここ「新保」の「新保陣屋」で投降しました。
823名の天狗党の浪士達は、敦賀の海岸沿いの
16棟の「ニシン蔵」に収容されました。
「ニシン蔵」の環境は劣悪で、雪国である敦賀の
真冬に、各蔵に50~60名ずつに分けて押し込め
られ、寒さで亡くなる者も出始めました。
この虐待に怒り、武士として一戦交えてから死ぬ
べきだった、と後悔する者も少なくなかった
そうです。
慕っていた一橋慶喜への期待は裏切られ、武田
耕雲斎をはじめ、首謀者352名全員が、
何と斬首!!、残りの者たちも厳しい処分が
下されました。
処刑は、ニシン蔵の脇に穴を掘り、5回に分けて
斬首して、死体をそこに放り込むという、残酷
非道なものでした。
更に、処刑後に、天狗党処刑の情報が故郷の
水戸に伝わると、水戸藩では、天狗党の家族らを
次々に処刑しました。
しかし、明治維新以降、天狗党の残党が、天狗党
の家族を処刑した者に対して、凄惨な仕返しの
私刑を行い続けました。
「天狗党の乱」は、この様に、日本の幕末に於ける
最大の悲劇でした!
我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、福井
市内を抜けて、「今庄」、「木の芽峠」を経由
して、北陸道を「敦賀」へ向かいます。
先ず、天狗党が投降したという、敦賀の新保
(しんぽ)の「新保陣屋」跡でバスを降ります。
写真は、武田耕雲斎が、幕府軍の先陣を務めた
加賀藩と、降伏の条件交渉をした「新保陣屋」跡
です。
次に、写真の「松原神社」でバスを降ります。
(福井県敦賀市松原町)
「松原神社」は、上の写真の武田耕雲斎らの天狗党
烈士の霊を祀った神社です。
武田耕雲斎は、下記の辞世の句を残しています。
”咲く梅の 花ははかなく散るとても 香りは
君が袖にうつらん”
(梅の花は散ったとしても、その残り香は、
あなたの袖に移ることでしょう。
(いつか、この思いをわかっていただけるに
違いない。))
前後の写真の「武田耕雲斎等の墓」は、国史跡で、
彼らが処刑後に埋葬された墓所です。
敦賀市と水戸市は姉妹都市になっており、毎年
10月10日に、「松原神社例祭」の「浪人まつり」
として、411柱の霊を慰める祭が行われて
います。
我々のツアーが松原神社を訪れたのは、その例祭
の前日だったので、神社の境内は、お祭りの
飾り付けで忙しそうでした。
墓前で熱心にお参りしているオジサンがいたので、
近寄って話を聞いてみました。
オジサンの先祖は、天狗党の首謀者として斬首
された浪士だそうで、毎年、この「浪人まつり」
に参加するために、水戸から来ているとのこと
でした。
神社の境内には、武田耕雲斎らが収容された
写真の「ニシン蔵」があり、現在は「水戸烈士
記念館」として使用されています。