ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

「島原の乱」の真相 (「BS歴史館」) 2014.4.9


(写真は、島原の乱で天草四郎の一揆軍の攻撃を
 受けた島原城)

今月・4月6日に、島原城を訪れた際に、何となく
不思議な違和感を感じました。

先日、渡辺真理が司会をしている「BS歴史館」
の録画を見直していて、その違和感の謎が解け
ました!
私が感じていた違和感とは、4万石の小大名
としては、島原城がアンバランスに大きく立派な
ことでした。

天守閣は、大阪城や熊本城に引けを取らない
大きさです!

まさに、この島原城のアンバランスさこそが、
天草四郎の島原の乱の原因だったのです!
その謎を解明した「BS歴史館”島原の乱の
真相”」が面白かったので、テレビ番組の
受け売りになりますが以下ご紹介します。
1637年、一揆勢は、島原城を攻撃、同時に天草の
富岡城も攻め、富岡城は落城寸前になります。

島原城を落とせなかった一揆勢3万7千人は、
原城に集結します。

これに対し、幕府軍総司令官・板倉重昌率いる
幕府軍4万人は、原城に総攻撃をかけますが、
何と! 幕府軍が惨敗!
このときの一揆勢の死傷者が僅かに「7名」
だったのに対し、幕府軍の死傷者は、何と!
「4000名」にのぼりました!



しかも、総司令官の板倉重昌は討ち死にです!

この一揆勢の強さの秘密とは何だったのでしょうか?
先ず、原城は、当時は廃城になっていたとはいえ、
石垣が5メートルもある防御に優れた城だった
うえに、海に面した天然の要塞でした。

そして、一揆勢の強さの最大の秘密は、一揆勢の
中心が百姓ではなくて、キリシタン大名だった
有馬や小西の残党(主を失い帰農していた武士達)
だったことです。

彼らが、百姓を指揮して、意気が高くて戦術的に
優れた軍団を形成していました。
実戦経験豊かな最強軍団の一揆勢に対して、平和
ボケした二世の寄せ集めの幕府軍は、ひとたまり
も有りません・・・
しかも、総司令官が、1万5千石の小大名・板倉
重昌とあって、福岡・黒田、熊本・細川、佐賀・
鍋島などの大大名中心の幕府軍は、板倉重昌の
命令を全く聞かずバラバラに戦い、一揆勢に
次々に狙い撃ちされてしまいます。
幕府の細川軍にいた剣豪・宮本武蔵も、原城側
から投げられた石に当り、命からがら逃げ帰り
ました。

(有馬文書で”石にあたりて すね立ちかねも
 うす”と武蔵が自ら書いています。)

そこで、ついに幕府側はエース登場です。

”知恵伊豆”と呼ばれた、幕府の実質NO2
である老中・松平伊豆守が、幕府軍12万人
の総司令官となって、原城を包囲して、兵糧
攻めを開始します。

歴史の教科書に書かれている様に、私達は、長年、
一揆勢は「キリシタン殉教」のために、原城に
籠城したと教わってきました。


しかし、近年になって、この史実が誤りである
という文書(壷井家文書)が、香川県小豆島で
発見されました。

その文書とは、知恵伊豆が、一揆の理由を問う
ために原城めがけて飛ばした矢文で、天草四郎
は矢文で一揆の理由を返信しています。

この発見された矢文(文書)によると、一揆の
理由は、「キリシタン殉教」ではなくて
「過酷な年貢の取り立てへの抗議」です。
以下、その天草四郎からの矢文です。

”今の領主が島原を治める様になって酷い仕打ち
を受けてきました。
全ての米を召し上げるだけでなく、払えないと
咎人の様に縄をかけられ、口や鼻から血が吹き
出るほどの拷問を加えられます。これが一揆の
理由です。”
しかし、知恵伊豆は、この「過酷な年貢の取り
立てへの抗議」の矢文を公表せずに、一揆の
理由を、何とか「キリシタン殉教」にしようと
します。
一揆勢には、キリシタン以外の色々な考えの人が
おり、一枚岩ではありませんでした。
天草四郎は、この異なる考えの人々を統一する
ためのシンボルだったのです。

知恵伊豆は、内部分裂を狙い、分断作戦の心理戦
に出ます。
”投降して村に帰り、仕事に精出せば、1年分の
 年貢を免除する。”
しかし、天草四郎を中心にした一揆勢の結束を
崩すことは出来ませんでした。
一揆勢は、殉教するために原城に籠城したのでは
なく、次の戦いに備えるために、作戦上、一時的
に籠城したのでした。
そして、次の戦いとして、当時、キリシタンを
支援をしていたポルトガル(カトリック)の軍艦
に応援を求めます。
それを察した知恵伊豆は、ポルトガルの敵の
オランダ(プロテスタント)に依頼して、海から
原城に砲撃を加え、一揆勢に心理的なショックを
与えます。

ポルトガルとオランダの裏の力関係をよく理解
出来ていなかった一揆勢は、最後の望みを断たれ
たと思い込み、ショックを受けて勢いを無くし
ます。

知恵伊豆は、原城に最後の総攻撃をかけて、1万
2千人もの死傷者を出しながら、原城に立て
籠もる一揆勢3万7千人を皆殺しにしました。

キリシタン・非キリシタンに関係なく、島原の
農民の大部分が一揆に参加して原城に立て
籠もっていたいたため、乱ののち、島原はほぼ
無人となってしまいました。
そのため、幕府は、他の藩からの移住計画を推進
し、島原の城下町を新たに作り直しました。
一揆の本当の理由を知っていた知恵伊豆は、
”分不相応な島原城を築城”するために、過酷な
年貢の取り立てを行い「島原の乱の原因」を作っ
た島原藩主・松倉勝家を斬首の刑に処します。

徳川二百数十年の長い歴史の中で、切腹では無く
て、斬首になった藩主は松倉勝家ただ一人です。
しかし、知恵伊豆は、原城の一揆勢3万7千人を
皆殺しにしてしまった以上、”咎(とが)無き者
を打ち果たすことは、天下のお仕置きに反する”
ために、「過酷な年貢の取り立て」を一揆の理由
にする訳にはいきませんでした。

知恵伊豆によって、歴史は書き換えられ、近年、
小豆島で矢文が発見されるまで、真相は闇に
葬られたのでした。

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コメント一覧

更家
反乱は必然
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
なるほど、確かに、幕府は築城許可を出していますよね。

同じ増税でも、島原の板倉家の特徴は、拷問や、”蓑踊り”と称して、年貢を納められない者に火を付けて、苦しむ様子を笑いながら眺めて楽しんだという、その異常さにありました。
その異常な残酷さに対して、キリシタン・非キリシタン関係なく、全領民が反乱を起こしたのは必然だったのでしょうね。

全領民が島原の乱で皆殺しにされ、島原の領民がゼロになってしまったので、乱のあと、他の藩の領民の移住が実施された、というのが、他の藩の百姓一揆との違いだと思います。
Komoyo Mikomoti
納得できる説です
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
なるほど。
読んでいて、納得できる説ですね。
しかし、築城の許可は幕府が出していたはずなので、
結局は、幕府に逆らったということになりますね。

松本藩の百姓一揆の記念館に行ったことがあるのですが、
きっかけは、藩の増税でした。
しかし、処罰されるのは、百姓側なんですよね。
それが封建社会ということなんですよね。
よっちん
http://blog.goo.ne.jp/harigatake1961
今日は仕事が忙しいので
訪問だけさせていただきます。

明日はゆっくり訪ねますね(^^)

更家
渡辺真理
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
私は、毎週、BS歴史館を楽しみにしています。
渡辺真理が、毎週、3~4人の歴史専門家を招いて対談を進めるのですが、彼女の一歩突っ込んだ質問で、テーマが深堀りされて、他の歴史番組よりも面白いですよ。
hide-san
BS歴史館
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
BS歴史館を知りませんでしたが、面白そうな番組ですね。
ボクは歴史音痴ですが、
今回の説明はわかりやすかったです。
更家
何だか複雑な気持ち
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
島原の乱は、悪政による一揆であった事を知ってから、島原城を観光して見て回ると、何だか複雑な気持ちになってしまいそう・・・
iina
更家)さん へ
http://blog.goo.ne.jp/iinna/
島原の乱は、学校で「キリシタン殉教」のための一揆と教わったので、悪政による一揆であったとは、最近に小説で知りました。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/19a82795623165205279292251f9a526

由井正雪の乱も、浪人問題に起因するらしいですね。

芝桜や大凧、鯉のぼりは、最近に知ったイベントです。
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