(写真は、尿前(しとまえ)の関)
2017年10月から2年間、私は、旅行社の「バスで行く
奥の細道」に参加しました。
このバス旅行は、2か月に1回の開催で、毎回2泊3日
でした。
スタートの「深川」から、約2,400キロ、ゴールの「大垣」
まで、2年間もの超長旅だったので、参加メンバーの15名
とはすっかり親しくなりました。
ただ、心残りだったのは、平泉から山形の湯殿山までの間の
立石寺や最上川については、メンバーの皆さんが複数回
行ったことがあるということで、これらを飛ばしてしまった
ことでした。
この飛ばした区間がずっと気になっていたので、昨年の秋に
思い立って、この奥の細道の未制覇区間を3泊4日で訪れて
来ました。
以下に、この「奥の細道」の未制覇区間の昨年秋の旅行
について、今回からシリーズで連載します。
東京 9:40 →(東北新幹線)→ 11:49 古川 12:15
→(陸羽東線・奥の細道号)→ 13:01鳴子温泉
(東京駅)
(陸羽東線の奥の細道号)
(鳴子温泉駅)
JR鳴子温泉駅で下車して、取り敢えず、今晩の宿の鳴子
観光ホテルへ向かいます。
ホテルの案内で聞いたら、「尿前の関」(しとまえのせき)
までは、徒歩15分くらいだというので、荷物を部屋に置いて
直ぐに出かけます。
外に出ると、風雨が段々と強くなってきました・・・
横殴りの雨に濡れながら、もう20分も歩いたでしょうか、
行けども行けども、それらしき案内も標識も何も見当たり
ません・・・
やがて、強風のために傘の骨が折れてしまいました・・・
下着までずぶ濡れになって、強風と横殴りの雨の中を、必死で
歩いて行きます。
ようやく、初めて尿前の関の入口の標識らしきものがあり
ました。
標識に従って、細くて暗い道を進んで行くと、ようやく、
写真の「尿前の関」の門がありました。
「尿前の関」の門から入り、関所の屋敷があったという敷地へ、
石段を下りて行きます。
案内板によると、関所は、間口73メートル、奥行き
80メートル、面積1,760坪もあったそうです。
また、関所は、切石垣の上に設けられた土塀で囲まれており、
屋敷内には、長屋門、役宅(187坪)、厠、土蔵など
10棟が建っていたそうです。
関所の門をくぐり、石段を降りた所には、上の写真の芭蕉像と
次頁の写真の石碑があるだけです。
芭蕉像の脇の次頁の2枚目の写真の石碑には、芭蕉一行がこの
「尿前の関」を通過するのに苦労した経緯が記されています。
石段を上って、尿前の関の門に戻り、門の前の細い道を更に
奥へ進むと、自然石に刻まれた下の写真の石碑が建って
いました。
石碑の正面には、前頁の写真の様に大きく「芭蕉翁」の
文字があり、石碑の裏面に「蚤虱 馬の尿する 枕もと」
の句が刻まれています。
(句意については、次回の封人の家で詳しく説明します。)
平泉を出て、出羽街道の中山峠を越えた芭蕉は、「尿前の関」
を経て、尾花沢(山形県)へ向かいます。
「尿前の関」(しとまえのせき)は、出羽(でわ)街道の
途中の「陸奥(むつ)の国」と「出羽の国」の国境に位置する
仙台藩が設けた関所でした。
(「陸奥の国」は、現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県に
またがる大国で、「出羽の国」は、現在の山形県と秋田県。)
当時、最上(もがみ)氏と伊達(だて)氏の対立が続いていた
ことから、尿前の関は、人馬や物資の出入りを厳しく
取り締まっていました。
芭蕉と曽良は、野宿をしながら、出羽街道の中山峠を越えて、
鳴子温泉を目指しますが、この中山峠越えコースが、
”奥の細道の最大の難所”でした。
この出羽街道の中山峠越えは、芭蕉の頃は、人が滅多に
通らない寂しい街道でした。
芭蕉と曽良は、この出羽街道の山道を、小笹を踏み分け、棒で
マムシを叩きながら、沢を渡り、岩にけつまずきながら
進みます。
この「尿前の関」に着く迄に、険しい山道を、風雨にまみれ、
野宿しながら歩いたので、どう見ても、怪しげな恰好の
2人連れだったでしょう。
その怪しげな恰好に加えて、芭蕉と曽良は、通行手形を持って
いませんでした。
当時、旅人は、仙台領に入る際に通行手形を受け取り、領外に
出るときに返却することになっているのですが、芭蕉と曽良
は、その大切な通行手形を持っていなかったのです!
芭蕉は、事情を説明してもなかなか信じてもらえなかった、と
「奥の細道」に書いています。
(奥の細道:「此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめ
られて、漸として関をこす」)
そりゃそうですよね、よそ者であった芭蕉一行が、通行手形
無しで、この関所を抜けるのは相当困難だったと思いますよ。
また、仙台藩は、芭蕉を幕府の隠密だと疑っていたので、関所
の役人は特に厳しく取調べをした、という説もあります。
(芭蕉が幕府の隠密だったという説については、「芭蕉忍者説」
を見てね。)
あの筆まめな曽良が、この出羽街道の中山越えについて記録を
残していないのは、難所の連続と、関所の厳しい取調べに
疲労困憊したせいであろう、と言われています。
次頁の写真は、「尿前の関」の道向かいにある「出羽道中
中山越」の石碑です。
中山越えは、尿前の関への細い道を、この石碑で左折し、
写真の暗い林の中の道へ入って行きます。