(”やっぱり、サンマは目黒に限る!”)
目黒雅叙園・百段階段の「和のあかり展」の見学
を終えて、JR目黒駅へ戻るために、もと来た
「行人(ぎょにん)坂」を上りながら引き返し
ます。
江戸時代には、「行人坂」から見る富士山が
有名で、行人坂は、”江戸屈指の富士見
スポット”として知られていました。
行人坂を上り始めると、すぐ左手には、上の写真
のホリプロのビルがあり、その向かいには、下の
写真の「大円寺」があります。
1772年、大円寺は、僧侶に放火され、折からの
烈風に火が燃え広がり、目黒から新吉原まで
焼いて千住でようやく消すことが出来たそうです。
大円寺は、この”行人坂大火”の火元だったため
に、長年、再建が許されず、1848年にようやく
再建されました。
境内には、”行人坂大火”の犠牲者を供養する
ために、写真の「五百羅漢」石仏が祀られて
います。
また、”悩みごとを溶かしてくれる”という写真
の「とろけ地蔵尊」があります。
江戸時代に、漁師が海から引き上げた際に、次頁
の写真の様に溶けていたのでこの名前が付いた
そうです。
また、八百屋お七にまつわる下の写真の石碑も
あります。
石碑の脇の説明板によると、
八百屋お七が、放火の罪で処刑されたのちに、
お七に恋された相手の寺小姓の吉三は、ここ
大円寺の隣にあった明王院(現・雅叙園)に
入門しました。
吉三は、お七の菩提を弔うため、27年かけて、
浅草観音までの20キロの道のりを往復する
一万日の行を成し遂げたところ、お七が夢枕に
立って成仏したことを告げられたそうです。
そして、ここ大円寺には、八百屋お七と吉三の
木像が残っているそうです。
写真は、”金ピカの薬師如来像”です?
これは、先ず、金箔3枚500円を買って、自分の
身体の悪いところに押し付けて貼ってから祈願
します。
大円寺を出て、JR目黒駅まで行人坂を上ります。
お昼時になったので、目黒駅から、「権之助坂」
を少し下ったところにある大衆食堂へ向かいます。
江戸時代、この権之助坂の辺りは急な坂しかなく、
村人は生活だけでも一苦労でした。
それを不憫に思った地元の名主の「菅沼権之助」
は、幕府の許可なく、資材を投げ打って
緩やかな坂を造りました。
それに対する感謝の気持ちを込めて、村人達は
「権之助坂」と名付けたそうです。
そして、「目黒」と言えば「さんま」!!
権之助坂の途中にある写真の「菜の花」(目黒
爺々が茶屋)では、落語で有名な「目黒の
さんま(注)」の定食(800円)(下の写真)を、
一年を通して食べさせてくれます。
(注)落語「目黒のさんま」
鷹狩りでお腹を空かせたお殿様が、「目黒の
爺々が茶屋」で、庶民の食べ物である「焼き
サンマ」を食べたところ大変美味しかった。
そこで、お城でも所望すると、料理人たちは、
お体に障らない様にと脂分を念入りに抜き、
また、骨が喉に刺さらない様にと全部骨を
抜いたところ、形が崩てしまったのでお椀に
入れて出したが、パサパサしてさっぱり
美味しくない。
殿様「このサンマ、いずれより取り寄せた?」
家来「はっ、日本橋魚河岸にございます。」
殿様「あっ、それはいかん!やっぱり、
サンマは目黒に限る。」
(歌川広重:名所江戸百景「目黒爺々が茶屋」)
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