(写真は、川中島古戦場の上杉謙信と武田信玄の
一騎討ちの像)
猛暑の中、松代の町中の松代城、眞田邸、真田氏
の菩提寺の長国寺を見物しましたが、町中に戻り、
引き続きレンタルサイクルで松代の中心部分を
見て回ります。
松代の史跡の見どころは、お城の前周辺に密度
濃く固まっていて、歩いて散策するのにちょうど
最適で、レンタルサイクルは必要ありません
でした。
真田邸の塀沿いの道を少し進むと、写真の「文武
学校」があります。
文武学校は、 松代藩士だった幕末の先駆者
「佐久間象山」の建言をもとに建設が進められ、
1855年に開校しました。
明治維新後も学校として使われ、昭和35年
までは、松代小学校の校舎でした。
また、ここ文武学校は、映画のロケ地としても
よく使われており、「蝉しぐれ」や「殿、利息で
ござる!」などの舞台にもなっています。
写真は、文学所で、教室として使われていました。
次頁の写真は、御居間で、藩主の部屋でした。
上の写真は、 槍術所です。
文武学校の道路向いの眞田邸の隣は、下の写真の
「真田宝物館」です。
(文武学校、眞田邸、真田宝物館の3施設共通券:400円)
昭和41年に、真田家12代当主・真田幸治氏に
よって、当時の松代町に寄贈された、真田家に
まつわる宝物(武具、調度品など)を展示して
いる博物館です。(撮影禁止)
武田信玄の書状や豊臣秀吉が真田昌幸に上洛を
促した際の書状など、貴重な資料が展示されて
います。
また、真田昌幸や信之の鎧なども展示されて
います。
真田宝物館を出て、川中島古戦場行きのバスの
時間まで、引き続き、松代の中心部を、自転車で
散策します。
上の写真は、目付役などを務めた「旧樋口家住宅」
です。
上の写真は、「松代藩の鐘楼」です。
この鐘楼は、真田信之が入封した直後に立て
られたとされる高さ約12メートルの鐘楼です。
現在のものは1801年に再建され、平成24年に
修復されたものだそうです。
次頁の写真は、松代藩・次席家老の「小山田家」
です。
ちなみに、小山田家は、幸村の姉の村松殿
(真田丸では木村佳乃)の夫の家です。
上の写真は、1792年の建築の松代藩・筆頭家老の
「矢沢家」です。
上の写真は、真田家の分家の真田勘解由家です。
レンタルサイクルの自転車を返却して、「川中島
古戦場」へ向かいます。
「川中島古戦場」へ行くには、「旧松代駅」バス停
からアルピコ交通のバスに乗ります。
バスは30分毎に出ていて便利です。
バスで約10分、「川中島古戦場」で下車すると、
道路向うが「八幡原史跡公園」です。
この公園が、有名な「川中島・第4次合戦」の
舞台となった古戦場です。
信玄は、この公園の場所に陣取って、 軍師・山本
勘助の「啄木鳥(きつつき)戦法」により、
上杉軍を攻めます。
啄木鳥戦法とは、兵を二手に分け、そのうちの
一手の別働隊が、こっそりと海津城を抜けだして、
妻女山に陣取る上杉軍の背後を突くことにより、
慌てて山を降りた上杉軍を、海津城を出て
川中島に陣取った本隊と別働隊で挟撃しよう
とする作戦です。
(黄色丸印が妻女山の上杉軍で、ピンク色丸印が
海津城(松代城)の武田軍。黒丸印が一騎打ちの
場所。)
しかし、この動きをいち早く察知した上杉軍は、
別働隊に襲われる前に、信玄の本陣を急襲します。
不意を打たれ、崩れ始めた信玄の本陣の中で、
有名な信玄と謙信の一騎討ちが行われました。
謙信が単身、信玄の本陣に突っ込んで一騎討ち
となり、謙信が振りかざした刃を、信玄は軍配で
受け止めます!
上の写真のこの一騎討ちの像は、 NHK大河
「天と地と」のときに作られたものだそうです。
上の写真の石碑には、”三太刀 七太刀 之跡”と
あります。
謙信が太刀を振り下ろして信玄に傷を負わせた
際に、これを受けた信玄の身体には3つの刀傷、
そして軍配には7つの刀の跡があったそうです。
しかし、NHK・BS「英雄たちの選択」に
よれば、武田側の記録では、謙信が切り付けて
来たのを信玄が防いだ、となっているものの、
逆に上杉側の記録では、謙信の家来が信玄に
切りつけた、となっているので、多分、後者が
史実だろうということでした。
(もし、自分の殿様の謙信が勇敢に切りかかった
のであれば、上杉側の記録は、当然、信玄に
切りつけたのは謙信の家来ではなく、謙信本人
だったと自慢気に記載するでしょうから。)
この史跡公園内には、武田軍が、討ち取った
敵将兵の首実検を行い、勝どきを上げたとされる
写真の「八幡社」があります。
この戦いで荒廃した八幡社神社を、後に、信玄が
再建したものだそうです。
境内には、その敵将兵の首を葬ったと伝えられる
上の写真の「首塚」もあります。
次頁の写真の八幡社の脇にある「執念の石」は、
武田の武将が、謙信を取り逃がしたくやしさに
槍で突き刺した石とのこと。
また、上の写真の神社前の「逆槐(さかさ
えんじゅ)」は、 武田軍が、土塁の土どめに
逆さに打ち込んだ槐(えんじゅ)の木が根付いた
ものだそうです。
この「第4次合戦」は、結局、一進一退の攻防戦
となり、またしても決着が着きませんでした。
僅か1日のこの戦いで、討ち死が両軍あわせて
8千人と、戦国史上最大の数に達しました。
この八幡原史跡公園の奥に、写真の「長野市立
博物館」があり、川中島の戦いの特別企画展を
やっていました。(300円)
夕刻に、古戦場の見学を終え、「川中島古戦場」
バス停から、アルピコ交通のバスで長野駅へ
向かい、長野新幹線で、東京を経由して横浜へ
帰りました。
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