(写真は、道標を兼ねた大きな金属製の「金燈籠」)
前日は、早朝に東京駅から東北新幹線に乗り、那須塩原駅で
下車、駅前から路線バスで佐久山宿に着きました。
そして、奥州街道を、佐久山宿から大田原宿まで歩き、
大田原宿の入口から路線バスで、JR西那須野駅前の
ビジネスホテルに向かいました。
今朝は、西那須野駅前のビジネスホテルを出て、9:20の
路線バスに乗り、9:56に大田原市内の末広二丁目で下車
して、前回ゴール地点の神明交差点まで少し歩きます。
下の写真の神明交差点が大田原宿の入口で、その交差点から、
「薬師通り」と呼ばれる大田原市の中心街に入って行きます。
大田原宿は、戦国時代の1545年に、那須氏の家臣の大俵
(たいひょう)氏が大田原城を築城して城下町を開いたのが
始まりです。
江戸時代には、人口1,428人、戸数245のうち本陣が2、
脇本陣が1、旅籠が43の賑やかな宿場でした。
大田原宿を支配した「大田原」氏は、当初は、「大俵」と
書いて、”たいひょう”と読みました。
その後、改名して、「大俵」の字を「大田原」と改め、
”おおたわら”と読むようにしました。
う~うん?、ややこしい・・・
「薬師通り」を進むと、左側には、寺全体が大田原城の西の
守りだったという「薬師寺」があります。
薬師堂内の金剛力士像、境内の七重塔、舎利塔など、いずれも
市文化財です。
薬師通りを更に進むと、左手の大田原信用金庫の前に、写真の
「那須与一像」が建っています。
大田原宿は、那須与一のゆかりの土地ということらしいです。
那須与一は、源平の屋島の戦いで、平氏方の軍船に掲げられた
扇の的を射落とした、という逸話で有名です。
薬師通りは、やがて金燈籠交差点に出ます。
交差点の手前の左角は、「金燈籠ポケット公園」になって
いて、大きな金属製の「金燈籠」( かなどうろう )が
建っています。
金燈籠は、江戸時代末期の1819年に建立されましたが、
太平洋戦争時に供出、その後、昭和54年に復元されました。
但し、石の台座の部分は、江戸時代のままで、写真の様に、
道標として、西側に「江戸」、東側に「白川」と大きく
彫られています。
また、この小公園内には、金燈籠の説明の石碑が建って
います。
金燈籠のある交差点を直進して、その先の交差点を左折
します。
左折した道を少し進むと、江戸時代には旅籠「上州屋」
だったという前頁の写真の「ホテルみつや」があり、
その角に、写真の「旧奥州街道 大田原 寺町」の道標が
あるので、これに従って右折します。
この辺りが、大田原宿の外れ近くで、城下町特有の枡形に
なっています。
この枡形を抜けて少し歩くと、左手に、上の写真の真新しい
本堂の龍泉寺がありますが、その左の左にカーブする道路
の先に、下の写真の「光真寺」があります。
山門をくぐると本堂があり、その左脇に、1545年にこの寺を
建立した大田原資清の像があります。
光真寺は、大田原藩主の菩提寺なので、本堂の左奥には、
歴代の大田藩主の墓が並んでいます。
大きな宝筐印塔がずらりと並んでいる風景は圧巻です!
もとの龍泉寺の前の道に戻り、奥州街道を少し進むと、左手に
「大田原神社」の石段が見えてきます。
807年創建の大田原神社は、大田原城築城に際し、大田原
資清が大田原城の鎮守社としました。
急な階段を上り左に折れると参道で、その奥に本堂があり
ます。
狛犬というより狛オオカミとか狛キツネとかでしょうか?
表情が何だか怖いです・・・
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