(写真は本丸の土塁の上から本丸跡を見下ろしたところ。 )
今朝は、大田原の宿場町の入口からスタートして、道標を
兼ねた金燈籠、大田原藩主の墓が並ぶ光真寺などを見学し、
宿場町の外れの大田原神社まで歩いて来ました。
太田原神社には、旧奥州街道をまたいで、大田原城址の入口へ
渡れる次頁の写真の横断歩道橋が架かっています。
大田原城は、1545年、大田原資清(すけきよ)によって築城
された平山城(ひらやまじろ)です。
資清は、大田原城を築いて居城とすると同時に、それまでの
「大俵」から「大田原」へと名を改めました。
関ヶ原の戦いの直前、家康は、大軍を率いて上杉景勝討伐の
ために出陣します。
その際、家康は、急遽、大田原氏に城の修理を命じて、上杉氏
の攻撃に備えさせました。
関が原の戦いのあと、大田原氏は1万2千石の大名となり
ます。
徳川幕府は、奥州への備えとして、大田原城を重視して
いました。
しかし、戊辰戦争の際には、大田原藩が逆に新政府軍に付いて
しまったために、大田原城は、新政府軍の会津攻めの重要拠点
になってしまいました・・・
このため、大田原城は、旧幕府軍の攻撃を受けて三の丸が炎上
してしまいますが、何とか落城だけは免れました。
そして、明治4年に廃城となります。
現在は、「龍城公園」として整備されて、お花見の名所に
なっています。
大田原城は、本丸・二の丸・三の丸に区画され、この外に、
北側と西側に曲輪(くるわ)がある複郭式の平山城です。
本丸を囲む土塁は非常に高く、写真の様によく残っていて、
素晴らしいです!
(本丸の土塁の上から)
そして、この高い土塁は、ウォーキングコースにもなって
おり、地元の方々が散策していました。
高い土塁のウォーキングコースなんて素敵だと思いませんか?
また、本丸の土塁以外にも、堀切、空堀、三日月堀などの
遺構も残っています。
全体としては、曲輪の形が分かりやすく残っており、非常に
よく整備された公園になっています!
(本丸跡)
そして、木立を通して大田原の街並みもよく見えます。
(本丸跡)
(二の丸跡)
(硝煙庫跡)
(台門跡)
(北曲輪跡)
(北曲輪跡)
(北曲輪跡)
(坂下門跡)
(三日月堀)
(本丸土塁上から蛇尾川を見る)
城の北側には、”じゃびがわ”とも 呼ばれる「蛇尾川」
(さびがわ)が流れています。
現在、整形外科の先生の指示で、「1日5キロの歩行制限」の
条件付きで街道歩きをしているため、このあと、今日の残りの
3キロ程度を歩いたら、日帰り温泉にでも浸かってのんびりと
過ごす予定です。
そういう訳で、「安心して下さい。大田原市内の日帰り温泉
は、ちゃんと調べてありますよ!」
本丸の土塁から、蛇尾川の河原への階段を下りてみます。
大田原城跡の対岸に、日帰りの大田原温泉があることを事前に
調査済みなのですが・・・
あっ!、対岸に、大田原の日帰り温泉施設と宿泊施設の
大きくて立派建物が見えます!
このあと、対岸に渡り、日帰り温泉にゆっくりと浸かって
生ビールでも飲みながら昼食を食べ、残りの3キロを
歩いてから横浜に帰る予定です。
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