ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

奥州街道を歩く(21:佐久山) 栃木県大田原市 7km 2017.10.27


(写真は、戊辰戦争の際に有名になった傷薬の薬屋の古い看板)

佐久山宿(さくやまじゅく)は、戸数121、人口473人で、
うち本陣1、脇本陣1、旅籠27でした。

佐久山は、1187年、源平合戦の際に弓で活躍した那須与一の
兄の那須次郎が、この地に佐久山城を築城して、佐久山氏を
名乗ったのが始まりです。
しかし、同族の福原資孝(すけたか)が佐久山氏を攻め、
佐久山城は落城、佐久山氏は追われました。
その後、1702年、福原資倍(すけます)が佐久山城を修復、
以後、福原氏が、旗本として明治維新までこの地を支配し
ました。

佐久山宿の入口の佐久山前坂交差点の脇の長い坂道を下り、
佐久山宿の中心の通りに入って行きます。


佐久山宿に入って直ぐ左手の民家の立派な門の脇に「運用膏」
と書かれた古い看板があります。

運用膏は、戊辰戦争の際、官軍が傷薬として用いて効き目が
絶大だったため、その後九州などからも注文があった有名な
薬屋らしいですが、現在は営業している気配はありません。

前頁の写真は、安政2年(1855)創業の「小島屋」菓子店
です。

新旧の家が混じった家並みですが、かっての宿場町の面影は
ほとんどなく、街道沿いには、空き地が目立ちます。

上の写真の郵便局の隣の駐車場が、かっての井上勘左衛門
「本陣跡」らしいのですが、説明板すらありません・・・

郵便局の手前には、上の写真の「村上英俊翁 生誕之地」の石
碑があります。
村上英俊は、ここ佐久山の出身で、日本で初めてのフランス語
の辞典を刊行するなど、幕末期から明治期にかけて活躍した
学者だそうです。

また、郵便局の隣の駐車場の横の空き地には、上の写真の
佐久山の出身の明治から昭和の書家「豊道春海翁 生誕之地」
の大きな石碑が建てられています。



豊道春海の石碑のすぐ先の右側に、上の写真の「大田原市
消防団」の倉庫があり、 その隣は、壁に那須与一が描かれた
公衆便所です。

ここ佐久山は大田原市ですが、至る所に「那須与一」関連の
立て看板などがあり、大田原市は「那須与一」で地域興しを
図ろうとしているみたいです。





消防団の倉庫の前には、上の写真の「旧奥州道中 佐久山宿
下町」の石柱が建っています。消防団の建物の前の道標を
右折すると、次頁の写真の「不動明王を祀った大日堂」が
あります。



大日堂の裏には、樹齢800年の「佐久山の欅(けやき)」が
ありました。

大日堂から街道に戻り、左手のガソリンスタンドを左折して、
佐久山小学校へ向かいます。

この小学校の裏山が「佐久山城址」でした。

佐久山城址は、現在は「御殿山公園」として整備されて
いました。


土塁などの一部が残っているらしいので、公園内をウロウロ
しましたが、その遺構へ行く道順の案内板が見当たりません
でした。



城址から小学校の前に戻り、小学校の手前の石段を上って
行くと、写真の「薬師堂」がありました。





上の写真の天井の竜の絵は、日光東照宮の鳴き竜を描いた絵師
によるものという説がありますが、真偽のほどは不明です。


佐久山宿の見物を終えて、郵便局の前のバス停へ戻ります。

次のバスまで2時間半あり、次は16:51の最終便です。

バスまでの2時間半をどうやって過ごすか?

「安心して下さい。ちゃんと調べてますよ!」

この前の喜連川宿で学習しましたから!

佐久山宿の入口に、日帰りの温泉があることを調査済みです。

佐久山宿の中心通りから、長い坂道を、佐久山宿の入口まで
戻ります。

佐久山宿の入口の交差点を右折した直ぐ先が、「佐久山温泉 
きみのゆ」という日帰り温泉施設です。

直ぐ横は、魚鶴という温泉ホテルで、きみのゆとは同族経営
みたいな感じです。
入湯料620円を払って、バスの時間までの2時間を過ごし
ました。

源泉かけ流しのアルカリ性単純温泉で、少しヌルッとする程度
の優しいお湯です。
大浴場、ジェット浴槽、座湯、サウナの他に、岩造りの露天
風呂もあります。

食堂の料理は、安くてメニューも多く、味もまあまあで、
常連客らしき人達でほぼ満員です。

館内の売店には、地元の野菜や果物も販売されていました。


「佐久山温泉 きみのゆ」を出て、16:51の最終バスに乗り、
大田原市役所前で乗り換えて、JR西那須野駅へ向かいます。
JR西那須野駅から東北本線に乗り、宇都宮駅で上野東京
ラインに乗り換えて、横浜に帰りました。


翌週、前回のゴールの佐久山宿へ向かいます。
佐久山行きの始発バスに間に合う様に、東京駅から
新幹線を利用します。

早朝に、JR横浜駅から上野東京ラインで東京駅へ行き、
東京駅から東北新幹線で那須塩原駅へ向かいます。


那須塩原駅前からバスに乗り、大田原市体育館前で、佐久山
行きの始発バスに乗り換えて、前回ゴールの佐久山郵便局前に
到着しました。


横浜(6:58) →(7:28)東京(7:44)→新幹線やまびこ→
(8:58)那須塩原
那須塩原駅前(9:15) →大田原市営バス →(9:38)大田原市
体育館前(9:40) →大田原市営バス →(10:00)佐久山
郵便局前


前回ゴールの佐久山郵便局前をスタートすると、直ぐに
佐久山宿を抜け、街道は右にカーブしながら坂を下ります。


坂の途中の「正浄寺」には、芭蕉の句碑がありました。

 「花の陰 謡(うたい)に似たる 旅寝哉(たびねかな)」 

 (吉野の花に行き暮れて、こうして旅寝をしていると、
なにやら謡曲の主人公になったような気分になる。)

この句は芭蕉が吉野で詠んだものですが、この様に、芭蕉の
句碑は、全てがそこで読まれた句という訳ではなくて、
後世に、その地域の芭蕉ファンが好きな句を選んで建てたのも
多い様です。

暫く街道を進み、次頁の写真の「箒川(ほうきがわ)」に
架かる「岩井橋」を渡ります。









岩井橋の直ぐ先の上り坂の左手に、上の写真の馬頭観音
らしき石碑群がありました。

そのあとは、ほぼ直線の道がずっと続きます。



やがて、吉沢地区に入り、谷田川を渡る小さな橋を渡ります。


小川を覗いてみると、澄み切った清流に水草が揺らいで
います。

川の左手の小さな中島に、聖徳太子の碑が立っていますが、
この周辺が、県天然記念物「「イトヨ(糸魚)」の生息地
らしいです。

残念ながらイトヨは見えませんでしたが、いかにもイトヨの
生息地という感じの湧き水です。


上の写真は、大田原市のホームページに掲載されていた
「イトヨ(糸魚)」の写真です。



旧道は延々と続きますが、更に進むと、右手が開けてきて、
遠くには山並みが見えます。




やがて「めがみばし」と書かれた橋を渡り、「親園」(ちか
ぞの)という集落に入っていきます。






少し進むと、左手に上の写真の「湯殿神社」があり、その
鳥居の手前に次頁の写真の「鞘堂」があって、中には
「浦蘆(ほろ)」石碑が納められています。 





「浦蘆」(ホロ)とは「蜃気楼」のことだそうです。

1812年、ここ那須野に、兵士の隊列が行進する「蜃気楼」が
現れました。

この蜃気楼を、旅の僧が目撃して記録、のちに、その記録した
光景をこの石碑に刻みました。

当時、ここ親園地区は、代官・山口鉄五郎の支配下にあり
ましたが、鉄五郎は、新田開発等の農村振興に努め、領民から
非常に慕われていました。

この「浦蘆(ほろ)」石碑には、その山口代官の善政を讃える
文言が加えられているそうです。

村人は、奥州街道を旅する人にも、広く山口代官の善政を
知ってもらおうと、街道筋にこの石碑を建てたのだそうです。

でも、どの様にして、この蜃気楼の発生と、鉄五郎の善政が
結びつくのでしょうか?

インターネットで調べてみると、どうも、中国の書「中庸」の
中にある”政治は蒲慮(蜃気楼)のようなもの”の一文と、
鉄五郎の善政を結び付けた様ですが、漢詩の素養がない
私には、この結びつきがよく理解出来ません・・・




浦蘆碑の斜め向かいに、代々名主を務めた立派な門構えの
「国井宅」があります。



門の脇の見事な赤マツには、「与一の里の名木・国井宅の
赤マツ」の説明板があり、樹齢約200年とあります。


その国井宅の門の左手の内側の「祠」の中に、「町初(まち
はじめ)碑」があります。

この石碑は、ここ「八木沢宿」が開かれたのを記念して
立てられた碑で、表に「此町初寛永四年(1627年)
卯(ひのえ)」、裏に「国井与左衛門」と彫られています。

なお、ここ親園(ちかぞの)にあった「八木沢宿」は
「間の宿」(注)でした。

 (注)「間の宿」(あいのしゅく): 宿場と宿場との中間
に設けられた休憩のための宿場で、宿泊は禁じられて
いました。



旧奥州街道は、町初碑の先からは、大田原宿の入口まで
約3キロの直線道路です。


やがて、街道は、百村川(もむらがわ)の川べりの道になる
ので、快適なウォーキングです。



その後、百村川の川べりから離れて、左にカーブすると、
大田原の市街地に入って行きます。





やがて、「佐久山街道」の道標も見えてきて、そこから
1キロくらい進むと、次頁の写真の神明町交差点です。

この交差点を右折すると、もう大田原宿です。


佐久山宿から大田原宿までは、約7キロです。

未だ昼過ぎですが、1日5キロの歩行制限を2キロ超えて
しまいましたし、足に少し痛みが出て来たので、本日は
早々と街道歩きを切り上げて、今晩の宿のJR西那須野駅前
のビジネスホテルにチェックインして、バスタブで足を
温めます。

もう既に、大田原の市街地に入ったので、この辺りからの
JR西那須野駅行きのバス便は頻繁にあります。


佐久山宿から大田原宿までは、約7キロです。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

ウォーク更家
メジャーな那須与一で地域興し
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そうですね、村上英俊や福原資倍は、名前自体が初耳なので、直ぐに忘れてしまいましたが、那須与一の故郷だと聞くと、そうか!そうだったんだ!、とインパクトが大きいですよね。

歴史ブームの昨今、那須与一を旗印にした大田原市の地域興しは正解かもしれませんね。
iina
マイナー と メジャー
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/94d545af4202db6e273151f513c572ad
マイナーな福原資倍や村上英俊翁に井上勘左衛門よりも、「那須与一」は名が轟き渡ってメジャーです。
「那須与一」を観光の旗印にしようという気持ちもわかります。

> 「飯桐」の写真も名前も初めて知りました。
当方も同様でした。
ちょうど、真っ赤な実をつけたイイギリを見ることができました。

ウォーク更家
那須与一の同族
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、私も、那須野と言われるこの一帯を歩いてみて、初めて、那須与一の同族が、ずっとこの地域を支配してきたのを知りました。

そうですね、災い転じて福となす?、というか、足を痛めてからの方が、以前よりも充実した旅になっているような...(-_-;)

そう、田舎のバス停はこんな感じなので、これを前提に、歩く行程プランを考えるしかないですね。
Komoyo Mikomoti
なるほど
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
那須与一の同族が、ずっとこの地を支配してきたのですね。
こういう地方史は、行ってみないとわかりませんね。

むしろ足を痛めたからの方が、
充実した旅になっているような...?

いなかのバス停は、どこもこんな感じですね。
ウォーク更家
自分のペースで街道歩き
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
ええ、奥州街道歩きも、いよいよ佳境に入ってきました。
1日の歩く距離も歩く速さも、自分のペースで、気ままな一人旅です。

そうですか、大田原の那須与一伝承館には、源氏の白旗がありましたか。
那須与一伝承館は、街道から少し外れており、足の痛みを抱えているため、私は立ち寄れませんでした。
hide-san
街道
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
街道歩きも佳境に入ってきましたね。

一人見たいものを見て歩く羨ましいですね。

大田原で那須与一伝承館に行って、源氏の白旗を始めてみました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「街道歩き」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事