(写真は、街道の両側の用水で回る水車)
白沢宿は、徳川家康が、上杉攻めで鬼怒川を渡るときに案内役
を務めた白沢村の庄屋の宇加地家と福田家が、その功績が
認められ、両家共同で白沢宿を構成することが許されたのが
始まりだそうです。
明治18年に、奥州街道が現在の国道4号線に移ったため、
現在は、静かで真っ直ぐな町並みになっています。
稚児坂で亡くなった稚児を供養する白沢地蔵尊の前の
下の写真のやげん坂を、足の付け根に違和感を感じながら
下って行きます。
信号のある丁字路になり、ここを左折すると、下の写真の
白沢宿が始まります。
白沢宿は、現在では、往時の面影を残す建物はほとんど
ありませんが、すっきりとした町並みで、車も少なく、
のどかな風景です。
宿場町の中心の道の両側には、綺麗な用水が流れ、用水には
ガードレールもなく、水車が回り、鯉が泳いでいました。
各家には、宿場であった頃の屋号が表示されていて、奥州街道
をテーマにした町興しが進んでいるみたいです。
宿場通りの中ほどの左には、上の写真の「宇加地家 本陣」の
表示のある立派な建物があります。
前述の様に、宇加地家は、白沢宿の成立に関わる古い家柄で、
幕末まで本陣を勤めました。
宇加地家の直ぐ左手には、白沢宿の村社である「白髭神社」
への参道があります。
足の痛みで、びっこを引きながら白髭神社の急な石段を
上り切ると、眼下に白沢宿の町並みが見えます。
この神社の境内で、白沢宿の町並みを見下ろしながら、
一休みして、足の痛みが治まるのを待ちます。
白髭神社の石段を下りて、再び白沢宿を歩き始めますが、
宿場通りは意外と短く、直ぐに宿の終りの「鍵の手」に
突き当たり、右折します。
突き当たりは、井上清吉商店(上の写真の左側の家)で、
「澤姫」という地酒を造っているみたいです。
鍵の手を進むと、 下の写真の小さな九郷半橋があり、
渡った橋の袂に、白沢宿の看板が立っていたので、多分、
ここが宿場町の外れなのでしょう。
白沢宿の看板の横に、上の写真のお洒落な郵便局の建物が
あり、その先の左手に、次頁の写真の「白澤の一里塚」碑
とバス停が見えました。
案内板によると、この一里塚は、白沢宿の会が建てたもので、
元々の一里塚は鬼怒川の河原にあった、ということみたい
です。
私の計画では、今日は、ここから更に、次の氏家宿まで歩き、
JR氏家駅から宇都宮駅へ戻り、駅前のビジネスホテルに
泊まる予定でした。
そして、明朝、JR宇都宮駅から氏家駅へ向かい、再び
JR氏家駅から街道歩きを再スタートする予定でしたが・・・
しかし、足の付け根が痛くて、とても次の氏家宿まで
歩けそうにありません。
奥州街道踏破のスタート早々ですが、ここで、ついに無念の
リタイアです!
この一里塚の前にある白沢河原バス停が、JR宇都宮駅からの
路線バスの終点らしいので、取り敢えず、ここから路線バス
に乗って、終点のJR宇都宮駅に向かいます。
そして、宇都宮のビジネスホテルにチェックインして、
バスタブで足を温め、明日からの奥州街道歩きを続けるか
否か、判断しようと思います。
翌朝は、早朝から、宇都宮のビジネスホテルのバスタブに
ゆっくりと浸かって、足を温めてから、膝痛対策で
持ち歩いているフェイタスZを貼ります。
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足が温まったところで、ビジネスホテルを出て、JR宇都宮
駅前から、白沢河原行きの路線バスに乗り、終点を目指し
ます。
通勤時間帯の路線バスは、通勤客の流れとは逆方向ということ
もあり、白沢に近づくと、乗客は私一人になりました。
終点の白沢河原バス停で降りようとすると、私を見たバスの
運転手さんが、幽霊でも見たかの様に、”あっ!”と
驚きの声を上げました??
逆に、私の方も、俺、そんなに変な恰好してたっけ?、と、
状況が掴めず、思わず自らの身なりを見直してしまいました
・・・?
どうも、私が座っていた最後部の端の座席が、運転手席からは
死角になっていたらしく、もう乗客は乗っていない、
と思い込んでいたみたいです。
「失礼しました!」とバツの悪そうな顔をした運転手さんは、
私に丁寧に詫びると、氏家へ歩くルートについて親切に教えて
くれました。
昨日、無念のリタイアをした「白澤の一里塚」碑をスタート
します。
快晴の秋空のもと、気持ちの良い田んぼの中の一本道を歩いて
行きます。
一時的でしょうが、フェイタスZのお陰で、足の痛みが消えて
います。
暫く歩くと、上の写真の西鬼怒川橋がありました。その橋の
袂に「鬼怒川の渡し」の矢印があったので、矢印に従って、
土手沿いに少し歩いてみましたが、下の写真の様な川の中を
向いた矢印があるだけで、「鬼怒川の渡し」の痕跡らしき
ものは見当たりませんでした。
西鬼怒川橋を渡り、田んぼの中の道を歩いて行くと、やがて、
鬼怒川の堤防に突き当たるので、ここからは、次頁の写真の
鬼怒川の土手の上を歩いて行きます。
鬼怒川の土手を歩き始めると、フェイタスZの効果が薄れて
きたのか、足の痛みが再発しました・・・
この土手を河原の方へ下りて行くと、「鬼怒川渡し場跡」が
あるらしいのですが、足を引きずって歩いている様な状態
なので、河原の「渡し場跡」探しはパスします。
やがて、前方に、鬼怒川に架かる「阿久津大橋」が見えて
来ました。
江戸時代には、先ほどパスした「鬼怒川渡し場跡」から、対岸
へ舟で渡っていた訳ですが、現代では、その渡し場より少し
上流に架かるこの「阿久津大橋」を歩いて渡ります。
この橋は、歩道がなく、車の通行量も多いので、足を引きずり
ながら、小走りで、必死で渡り切ります。
鬼怒川を渡ると、「さくら市」に入ります。
さくら市側の鬼怒川の護岸には、昔、「阿久津河岸」があり、
奥州各地からの米を江戸へ運ぶ基地として、江戸時代から
明治中期まで賑わいが続いたそうです。
阿久津大橋を渡った直ぐ左手の土手を下りた近くに、船の御霊
を祀った極彩色の「船玉神社」があるみたいですが、足が
痛んで、土手を下りて行く気がしないのでパスします・・・
少し歩くと、「浮島地蔵尊」の矢印があったので、それに
従って行ってみると、下の写真の「浮島地蔵尊」のお堂が
ありました。
鬼怒川は、名前の通り大洪水が多かったのですが、このため、
水害除けの水神や地蔵の信仰が多く生まれました。
その中で、度重なる水害にも拘わらず、ここの地蔵尊は、
流されずに浮いいて、この地に留まったそうです。
浮島地蔵尊から旧奥州街道に戻り、更に進んでいくと、右手に
「将軍地蔵」の矢印があり、その直ぐ奥に、次頁の写真の
地蔵堂が見えました。
案内板によると、この「将軍地蔵」は「そうめん地蔵」とも
呼ばれているそうです。
これは、室町時代、この地から日光山に修行に行った坊さん
が、意地悪な山伏に素麺を無理やり食べさせられて気絶
しました。
その後、別の坊さんが来て、日光中の素麺を食べつくした
ので、その山伏は降参しました。
すると、勝った坊さんは、「将軍地蔵」の姿となり、無理やり
食べさせられて気絶した坊さんをここに連れて帰りました。
これが、現在行われている日光の「強飯式」の由来だそう
です。
そうめん地蔵の境内には、写真の閻魔堂もありました。
そうめん地蔵を出ると、少し先の左側に、「勝山城址」の
案内板があったので、案内板を左折して城址公園に
立ち寄ります。
⇒「勝山城址」見学については、次回に報告します。
(赤色線が旧奥州街道と思しき道、黄色線が国道4号)
城址公園の見学を終えて、旧奥州街道に戻り、少し歩くと、
国道4号にぶつかりました。
旧奥州街道と思しき?狭い道は、国道4号を横切って、反対側
に真っ直ぐに伸びています?
ここの交差点は、横断歩道も信号もなく、ダンプが猛スピード
で走っているので、横断するのは恐ろしい感じです。
でも、信号のある横断歩道まで迂回するには、かなりの距離が
ありそうなので、左右の車が切れたのを十分に確認してから、
足を引きずりながら走って渡りました。
やれやれ、ホッ・・・。
しかし、こんな信号も横断歩道もない様な田んぼ道のあぜ道
が、ホントに旧奥州街道なのでしょうか?
不安になってくると同時に、多分、何処かで道を間違えたの
だろうな~、という気がしてきました。
城址公園まで引き返して、分岐点を確認しようか否か、と
迷いながら、とても旧奥州街道とは思えない田んぼ道を、
トボトボと歩いていると、道の脇に、下の写真の
「お伊勢の森」の矢印がありました。
ホッ、間違えていなかったんだ!
「お伊勢の森」は、かっては広大な森だったらしいのですが、
現在は、民家の脇に、次頁の写真のこんもりとした木立が
あるだけで、「天照皇大神宮」の大きな石碑が建っています。
案内板によると、伊勢神宮をここに勧請した小さな神社が、
ここ旧奥州街道の脇にあったとのことです。
更に進むと、JRの「旧奥州街道踏切り」があり、その先で、
T字路に付きあたりますが、この右角に次頁の写真の
「奥州街道道標」と「馬頭観世音像」が建っています。
道標は、ほとんど読めませんが、「右 江戸海道」、
「左 水戸・かさま・下だて・下づま」と彫られています。
この道標を左折すると、もう次の氏家宿です。
氏家宿に入りましたが、足の痛みが酷くなったので、宿場町の
見学はしないでJR氏家駅に直行します。
JR氏家駅から東北本線に乗り、宇都宮で上野東京ラインに
乗り換え、横浜に帰りました。
白沢宿から氏家宿までは、約6キロです。