(写真は、「二荒山神社」への石段)
⇒
猛暑、長雨、台風とずっと異常気象が続いていましたが、
ようやく穏やかな秋晴れになったので、東海道、中山道、
日光街道の踏破に続き、奥州街道の踏破を目指します。
早朝に、JR横浜駅から、上野東京ラインで、乗り換えなし
でJR宇都宮駅へ向かいます。
JR宇都宮駅から、路線バスに乗り、地方裁判所前で下りて、
少し戻り、日光街道と奥州街道との追分から、奥州街道
踏破をスタートします。
日本橋から、日光街道とずっと重なってきた奥州街道は、ここ
宇都宮の伝馬町の交差点で、日光街道と分かれます。
上の写真の脇道へ左折する赤矢印が「日光街道」で、大通りを
直進する赤矢印が「奥州街道」です。
(日光街道と奥州街道の追分までの宇都宮宿の様子については、
「日光街道を歩く:17宇都宮」を見てね。)
宇都宮宿は、日光街道・奥州街道で最大の宿場で、二荒山神社
の門前町として発展してきました。
幕府は、日光東照宮の入口として、また、奥州地方に対する
北方への守りの拠点として宇都宮を重視していました。
しかし、宇都宮が戊辰戦争の戦場となった結果、宿場町は
ほとんど焼失してしまい、当時の面影はほとんど残って
いません。
日光街道と奥州街道との追分の道路向かいに本陣がありました
が、現在は、上の写真の様に、大銀杏がそびえています。
大通りの奥州街道を進んで行きます。
間もなく、左手に上の写真の「丸治ホテル」があります。
丸治ホテルは、創業300年で、江戸時代からこの場所で
旅籠を営んできました。
「丸治」の名前の由来は、創業者・丸谷治左衛門に由来する
そうで、丸治ホテルの幅が狭く奥行きが長い敷地が、
江戸時代の「短冊割り」の町割りの名残りです。
更に、大通りの奥州街道を進んでいくと、左側の石段を
上り切ったところに「二荒山神社」があります。
二荒山神社の石段を下りて、更に歩き、田川にかかる宮の橋を
渡ると、下の写真の正面の突き当たりには、JR宇都宮駅が
見えます。
JR宇都宮駅周辺には、餃子店が軒を連ねます。
日光街道踏破の際に、すっかり宇都宮餃子にハマってしまった
ので、素通りする訳にはいきません・・・
取り敢えず、宇都宮駅前の餃子屋で腹ごしらえをしてから、
奥州街道歩きを続けます。
(ネギ味噌焼き餃子と生ビールのセット:880円)
( ↑ 最初に撮り忘れたので、食べかけの写真ですが)
満腹になったので、宮の橋まで戻り、田川に沿って進みます。
暫く歩くと、明治28年に建てられた「旧篠原家住宅」(重要
文化財)があります。
篠原家は、江戸時代の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦
まで、醤油の醸造と肥料商を営んでいたそうです。
(篠原家の内部見学については、2013/1の「JR烏山線の沿線
散策」を見てね。)
旧篠原家の辺りが宇都宮宿の外れで、ここから奥州街道の次の
宿場町の白沢宿を目指して歩いて行きます。
奥州街道は、やがて東北新幹線のガードをくぐり、
県道125号(宇都宮ー氏家線)に合流します。
前頁の写真は、街道沿いにある岩淵家の立派な長屋門です。
暫く歩くと、竹林町の信号の先の右奥の住宅街の中に、
上の写真の小さな「白山神社」があります。
何の変哲もない小さな神社ですが、実は、有名な「宇都宮城
”釣天井”(つりてんじょう)事件」の導火線となった舞台
が、何と!、この神社にありました!
(「釣天井事件」の詳細については、「日光街道を歩く
:17宇都宮」を見てね。)
1621年、宇都宮城の改築に際し、2代将軍・徳川秀忠は、
根来組同心百人衆を、改築工事の監視のために送り込みます。
これに対し、宇都宮城主の本多正純は、何と!、幕府から
差し向けられたこの百人衆の全員を捕らえ、一日のうちに
処刑してしまいました!
そして、首と胴体を別々に埋めましたが、そのうちの胴体を
埋めた「根来塚」と呼ばれる胴塚が、ここ「白山神社」の
裏側にあったそうです。
怖っ~・・・
それにしても、本多正純と秀忠の確執は、想像以上のものが
あったんですねえ~。
将軍が差し向けた根来衆を、宇都宮城主が捕らえて斬首する
とは!
世間で”釣天井事件”がもっともらしく噂されたのも
頷けます。
という訳で、「白山神社」の裏手を一生懸命に探しましたが、
それらしき場所には、新築の民家も建っており、よく分かり
ませんでした・・・
根来塚を出て少し歩くと、栃木銀行北支店の横手に、次頁の
写真の「首切り地蔵」がありました。
ここが、処刑された根来組同心百人衆の首を埋めた「首塚」が
あった場所だそうです。
ここには、処刑された百人衆が亡霊となって現れるので、
僧侶が、この「首切り地蔵」を建てて、この亡霊達を
供養したそうです。
「首切り地蔵」の横には、次頁の写真の「土堂原地蔵尊」の
標柱と石仏が並んでいました。
そして、この辺りは、また、宇都宮藩の処刑場でもあった
そうです。
怖っ~・・・
首切り地蔵を出て、松や杉などの旧街道の名残りを僅かに残す
直線の旧奥州街道を進みます。
街道の両側には、大谷石作りの塀や倉のある立派な家が
点在します。
暫く歩いていると、突然、右足の付け根に痛みが走りました!
奥州街道のスタート早々に、アクシデント発生です・・・
びっこをひきながら、ゆっくりゆっくりと歩きます。
しかし、歩く毎に、右足の付け根に軽い痛みが走ります。
半年ぶりの街道歩きで、ウォーミングアップ不足か?
びっこをひきながら、かなりの距離を歩いたところで、旧奥州
街道は、上の写真の「稚児坂」にさしかかります。
1196年、鎌倉幕府から奥州総奉行の任命を受けた伊沢家景
が、任地に向かう途中、この坂にさしかかったところで、
同行していた乳幼児の我が子を亡くしました。
それ以来、この坂は「稚児坂」と呼ばれる様になりました。
稚児坂を上り切ると、左手に広大な王子製紙の再生紙工場が
ありました。
更に進んで行くと、Y字の分岐がありますが、奥州街道は
直進して、横断歩道橋のある方の道に向かいます。
やがて道は、右にカーブする坂道となり、その坂道を下り
始めると、右手に、前述の稚児坂で亡くなった稚児を
供養する前頁の写真の「白沢地蔵尊」がありました。
案内板によると、奥州総奉行・伊沢家景は、ここに我が子を
葬り、地蔵堂と石塔を建てた、とあります。
白沢地蔵尊で水分を補給して、一休みして、足の痛みが
治まったところで、白沢地蔵尊の前の坂を、ゆっくりと
下って行きます。
この坂は、案内板によると、漢方の薬種を砕く舟形の器具
(薬研:やげん)に坂の形が似ているとことから、
「やげん坂」と呼ばれているそうです。
やげん坂を下り切った突き当りの交差点が白沢宿の入口です。
宇都宮宿から白沢宿までは、約11キロです。
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