ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

中山道を歩く(67-2:守山:守山からゴールの草津へ)  滋賀県守山市  5km    2016.4.20


(写真は、中山道と東海道の合流地点にある草津の「追分道標」:右側が京都方面、左側が江戸方面)
(写真手前の道が中山道、右側の奥から手前への道が東海道。)

「閻魔堂」から、暫くは、住宅街の中の長い直線道を歩いて
行きます。



やがて、中山道は、栗東(りっとう)市に入り、左手に、
大宝年間(701~704)の創建という「大宝神社」の
森が見えて来ます。


神社の鳥居の奥は公園になっていて、その公園の中に「芭蕉
句碑」とその説明の碑が立っていました。



”へそむらの まだ麦青し 春の暮れ”
(「へそむら」は、江戸時代に立場だった近くの「綣(へそ)村」を指しています。)



大宝神社の前の「佛眼寺の地蔵堂」の中を覗いてみます。


説明板によると、このお地蔵さまを川から拾い上げたときに、
寒かっただろう、と頭から綿を被せたので”綿被り地蔵”
というそうですが、お地蔵様は何も被っていませんでした?



佛眼寺の地蔵堂を過ぎて、暫く殺風景な道路を歩いて行くと
草津市に入ります。





間もなく、中山道の案内図があったので、これに従い、
JR東海道線の高架下の小さなトンネルをくぐって、
東海道線の反対側に出ます。







東海道線と並行して暫く歩き、高速道路のガードをくぐると、
その先に、国の重要文化財の「伊砂砂(いささ)神社」が
ありました。


伊砂砂神社を出て、草津市の街中を進んで行きます。






更に進んで、草津駅へ向かう道路との交差点を渡ると、
中山道は、「きたなか商店街」のアーケードに入りました。





この商店街のアーケードを通り抜けた所にトンネルがあり、
これを抜けると草津宿です!


トンネルの上は、草津川の川底です!



トンネルの出口の左手に、下の写真の追分道標があり、ここが草津宿の入り口です。




追分道標には、「左 中仙道みのみち、右 東海道いせみち」
と刻まれており、ここで中山道と東海道が合流します!

守山宿から草津宿までは、5キロです。



さて、ここで問題です。

「中山道の終点」は、「京都」でしょうか、それとも「草津」でしょうか?

もしも草津が終点ならば、私の「中山道踏破の一人旅」も、
ここでめでたく完了なのですが・・・

実は、このところ、中山道のゴールを何処にするか、①~③の選択肢で悩んでいました。

①草津から京都まで東海道と同じルートをもう一度歩く。

⇒ 同じルートを同じ史跡を見物しながら再び歩くという
のは、余程、お気に入りのコースでない限り、やる気
が出ないなあ~・・・

②草津から京都に小関越えを入れて異なるルートを歩く。

③東海道と中山道の合流点の草津をゴールにする。

⇒ 東海道を歩いたことが無くて中山道を歩く人は、当然、
草津をゴールにしないで京都まで歩くんだろうなあ~・・

  しかし、既に東海道を踏破した皆さんは、この後どう
  しているのかなあ~?

先般、JR東日本主催の「東海道と中山道の楽しみ方講座」に出席しました。

その際、講師の先生に、”中山道の終点”は京都ですか?、
それとも草津ですか?、という質問をしてみました。

講師の回答は、「中山道の終点は正しくは草津です。従って
中山道69次ではなくて、正しくは中山道67次です。」
とのことでした。

そこで、私のこの中山道歩きは、取り敢えず、”草津を
ゴール”とすることに決定しました!

蛇足ですが、このときのJR東日本の講座の趣旨は、
「東海道”53次”は広重が間違えて広めたもので、
大阪までの東海道”57次”が正しい。」というもの
でした。

この講師の説明だと、確かに、家康が東海道を整備したとき
は、京都までの”53次”でした。

これは、当時、未だ大阪には敵方の豊臣秀頼が頑張っており、
大坂は危険地帯だったので、このときは東海道を安全な京都
迄としたそうです。

しかし、大坂の陣で豊臣が滅んだその年に、東海道は大阪まで
伸ばされて”57次”になりました。

従って、広重の時代も含めて、江戸時代の大部分の期間は、
東海道”57次”だった、というのが講座の趣旨でした。

同様の趣旨で、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の最終編
(8編)は、京都ではなくて大阪で終わっています。


ps.
この「中山道を歩く」のブログでは、「続膝栗毛」の弥次さん
と喜多さんのエピソードについて色々とご紹介してきました
が、最後に、面白い話しを一つご紹介します。

「東海道中膝栗毛」の完結編(8編)が出た5年後に、
「東海道中膝栗毛(発端)」が出版されますが、その
中で、弥次さんと喜多さんの”関係”が次の様に暴露
されています!


”弥次さんは、駿河府中の商人でしたが、旅役者の華水
多羅四郎(はなみずたらしろう)一座の「鼻之助」という男
が好きになり、江戸で”同棲”します。

そして、この「鼻之助」とは、何と!「喜多さん」のこと
だったのです!”
この弥次さんと喜多さんの”関係”については、「真夜中の
弥次さん喜多さん」として、宮藤官九郎が映画化したので、
ご存じの方も多いかも知れませんが・・・

そして、「東海道中膝栗毛」が完全に終わっても、その人気は
衰えず、「続膝栗毛」として、『木曽街道』と『中山道中』
の他にも、「木曽路から善光寺道中」、「金毘羅参詣」、
「宮島参詣」、「善光寺道中」、「上州草津温泉道中」が
出版されました。


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コメント一覧

更家
中山道”67次”説
中山道完全踏破祝いのコメント、ありがとうございます。

コスモタイガーさんの”中山道・江戸~京都間”説、確かに自然な考えで無理がありません。

そうですか、東海道57次は、髭茶屋追分で分岐して、三条大橋へは向かわず大阪に向かったんですか。
なるほどねえ、そうすると、中山道69次(江戸~京都間)説の方が、説得力がありますね。

ちなみに、私が受講したのは、大人の休日倶楽部主催の「東海道57次と中山道67次の楽しみ方講座」でした。

私が質問した講師・志田威氏は、元JR東日本専務で東海道蒲原宿歴史館の館長です。

志田氏は、講座のタイトルにある通り、東海道”57次”説と、中山道”67次”説への思い入れの非常に強い方なので感化されてしまいました。
もっとも、志田氏は歴史学者ではないので、仰せの通り、中山道”67次”説は、単に一つの説に過ぎないと思います。

まあ、いずれにしても、私は、東海道の京都~大坂間の歩きと、宮~桑名間の海路を残していますが、これは今後の課題というより、今後の楽しみです。

街道ランのコスモタイガーさんと、この様な議論が出来ることは凄く楽しいので、今後も、よろしくお願いします。
コスモタイガー
中山道
http://blog.goo.ne.jp/cosmotiger_1968
うーむ、東海道と中山道のゴール問題?は、諸説入り乱れているようで、難しい話ですよね。
現代なら、「国道1号はここからここまで」と、書類上明記されてるから揉める事ないんでしょうけど。

とりあえず学校の教科書では、恐らく現在も、東海道は53次、中山道は69次、と教えているんでしょうけど、教科書が全て正しいわけじゃないことは私も身に沁みてます(笑)
私の子供時代「踏み絵」と習ったのに、今は「絵踏み」と教わるらしいですし。
鎌倉幕府成立は「いいクニ作ろう」なんて覚えたのに、今は「いいハコ」でしたっけ?

ちなみに私自身はいくつかの資料やHPのリサーチはもとより、そして実際に走ってみた感覚として、東海道は57次(江戸~大阪間)、中山道は69次(江戸~京都間)がもっともしっくり来る説明に感じました。

「1つの道に1つの呼称」という厳格な解釈をする必要はないんじゃないのかな~っと思ったりします。
「東海道は57次!中山道のゴールは草津!」とあてはめてしまうと、大津宿先の髭茶屋追分~三条大橋間の位置付けはどうなっちゃうの?という新たな矛盾が発生します。(57次は、髭茶屋追分で分岐、三条大橋ではなく、大阪に向かいます)

それに、静岡県の由比~興津間や滋賀県の水口宿など、東海道が3つに分岐する事実もあります。
東海道の「分岐」は認めるけど、中山道の「重複」は認めないというのも、何となくスッキリしません。

現代の国道でも、分岐があれば重複もあります。
(少なくとも当時の)庶民はおおらかに解釈し、それが安藤広重の絵にも現れたのではないでしょうか?
決して「間違えた」わけではないと思います。

もちろん私は専門家ではないので、単なる個人の感想ですけどね。

とはいえ、すでに東海道を踏破された更家様は、いうまでもなくすでに草津~京都間は歩かれてるわけですから、草津で中山道完全踏破であることは、紛れもない事実だと私も思います。
あらためて、おめでとうございます。
更家
ありがとうございます。
踏破のコメント、ありがとうございます。
お陰様で、何とか中山道も踏破出来ました。

現在、これからの日光街道を下調べ中です。
これからもアドバイス、よろしくお願いします。
みや
踏破、おめでとうございます!
http://blogs.yahoo.co.jp/miyakatsu1968/folder/1088459.html?m=lc&p=10
1ヶ月ほど、ブログを確認していませんでしたが、遂に踏破ですね。
日光街道は、2大街道と比べると起伏に欠けますが、
それでも完歩した時の感動は忘れません。
楽しいレポート期待しています。
更家
ありがとうございます
ありがとうございます。
東海道に続き、中山道も無事に踏破出来ました!

そう、私も、草津宿の大きな常夜灯は二度目ですが、やはり感動しました。

次の日光街道も、引き続きご愛読の程、よろしくお願いいたします。
Komoyo Mikomoti
こんばんは。
http://blogs.yahoo.co.jp/ya3249
中山道踏破、おめでとうございます。

私の場合は、中山道が先で、東海道が後だったのですが、違う方向からやってきて草津宿の大きな常夜灯をもう一度見たときは、感動しました。
(ただ、どちらの街道も、関東方向は未踏破なのですけど。)

日光街道の記事も楽しみに待っています。
更家
祝ゴール、ありがとうございます
祝中山道ゴール、ありがとうございます。

そう、講師の答えが「草津」だったので、守山~草津で完全踏破、終了となり、ホッとしました。

なるほど、そう言われれば、「へそむら」は、江戸時代に日本の中心の”へそ”だったのかもしれませんね。

そう言えば、東海道では、宿場町で全行程を描いたタオルを買いましたが、中山道では、全行程やゴールのタオルは売っていませんでした・・・
iina
祝 中山道ゴール
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/d57f42d07b4667411574bf332727368f
>「中山道の終点」は、「京都」でしょうか、それとも「草津」でしょうか?
誰もが、京都と思うはずの質問ですから、答えを「草津」と考えたとおりの正解でした。

>「へそむら」は、江戸時代に・・・「綣(へそ)村」を指し・・・
日本の中心と考えての、へそだったのでしょうか?

>東海道線と並行して暫く歩き、高速道路のガードをくぐると、その先に、国の重要文化財の 「伊砂砂(いささ)神社」がありました。
いまでも要所に建っているのですから、 ゛いささか゛ 驚きました。

中山道ゴールのタオルを期待しています。

更家
草津のトンネルは川の下
そう、hide-sanさんの記憶は正確ですよ。
草津のトンネルは天井川の下で、トンネルを出たすぐ左は役所でした。
トンネルを出たすぐ右に階段があって、上れば川を見に行けます。
hide-san
草津のトンネル
http://blog.goo.ne.jp/hidebach
草津のトンネルは川の下だったように記憶しています。
それで出たところで、川を見に行った記憶です。

トンネルを出たすぐ左に役所があって、何を聞きに行ったか記憶がありませんが、
何か質問をしに行ったのを思い出します。

ずいぶん昔の話になりました。
更家
中山道を歩く:感想の取り纏め
ありがとうございます。
東海道に続き、中山道も無事に踏破しました!

高崎宿から日本橋までは、見るべきものが少なく、”我慢歩き区間”になると思いますが、あと一息なので頑張って下さい。

ご要望の難所、見所、もう一度行きたい場所、食べ物、苦労した事については、総集編「中山道歩きの感想」として、後日取り纏めて、このブログでご報告予定ですのでご期待下さい
丹波の國から
中山道を歩く
草津宿までの踏破おめでとうございます。私は高崎宿までですが、日本橋までの中山道歩き、更家さんのブログを参考にさせてもらいます。
更家さんにとっての中山道の難所、見所、もう一度行きたい場所、記憶に残る食べ物、苦労された事、其の外を何かの機会に教えて下さい。
更家
熊にも遭遇せずに無事踏破
ありがとうございます。

東海道に続き、熊にも遭遇せずに中山道も無事に踏破しました!

次の日光街道を目指して、現在準備中ですので、引き続き、ご愛読の程、よろしくお願いいたします。
船橋原人
中山道踏破めでとう!!
ついにやりましたね。
初めから自分も一緒に歩いた気分で拝見しました。
建造物やそれに関することなどを詳しく調べて掲載していただき、参考になりました。(私の脚力では挑戦することは不可能ですが・・・)
次の目標に向かって準備を進めていることでしょう。
またブログで拝見できることを楽しみにしております。
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