(写真は、等々力渓谷の散策路)
今回は、「等々力渓谷」を散策します。
「等々力渓谷」は、武蔵野台地の南端を矢沢川が侵食して
出来た、全長1キロの東京23区にある”唯一の渓谷”です。
等々力渓谷の至るところで湧き出る水は、「東京の
名湧水57選」に選ばれています。
ここは、都会の喧騒から切り離された、鳥のさえずりや
渓流の音が静かに聞こえる素敵な空間です!
多摩川と別れて、谷川橋を渡り、谷沢川を遡りながら、
「等々力渓谷」の散策路を歩んで行きます。
等々力渓谷に沿って少し歩くと直ぐに、「日本庭園・書院」の
かぶき門があります。
かぶき門をくぐると、竹林が美しい日本庭園です。
奥に進むと、書院があり、ここでは日本庭園を眺めながら休憩
出来ます。
説明版によると、書院の建物は昭和36年建築で、庭園は
昭和48年作庭と比較的新しいものでした。
等々力渓谷に戻り、散策路を歩んで行きます。
散策路を進むと、写真の「不動の滝」があります。
不動の滝の右手の急な石段を登って行くと、突き当たりが
平安時代末期に開かれた「等々力不動尊」です。
この不動尊は、正式名称は、滝轟山明王院(りゅうごうさん
みょうおういん)といい、大日如来の使者である御不動様を
祀っています。
写真の「等々力不動尊の本堂」は、江戸時代末期の建築です。
写真の「見晴らし舞台」は、等々力不動尊の横にある木製の
舞台で、ここから渓谷内を一望出来ます。
等々力不動尊の急階段を下りて不動の滝へ戻り、少し進むと、
写真の「稚児太子堂」がありました。
太子堂から、散策路を更に進んでいくと、右手に、奥行きが
13メートルもある「等々力渓谷3号横穴」があります。
説明版によると、等々力渓谷では、古墳時代末期から奈良時代
にかけて構築された横穴墓が6基も発見されています。
中でも、昭和48年に発見されたこの「3号横穴」は、
典型的な横穴墓の形態を留めています。
被葬者たちの副葬品が豊富なことから、等々力周辺を治めて
いた有力者であると推定されるそうです。
遊歩道の先に、写真の「環状8号線(環8)の陸橋」が見えて
来ました。
環8の陸橋の下に、次頁の写真のイタリアンの「オットー
(OTTO)」の看板がありました。
看板に従って、急な階段を息を切らせながら上がっていくと、
その「オットー(OTTO)」がありました。
前頁の写真左側の緑色の鉄骨が環8の陸橋です。
ここで、写真のピザ(1,250円)を注文して、眼下の等々力
渓谷を眺めながら食事をします。
店内はほぼ満席で、大勢の女性客が、グループでテーブルを
囲んでお喋りしながら食事していました。
店内を見回すと、男性客は私だけで、しかも、一人でテーブル
を独占してしまっているので、そそくさと食事を済ませて
出ました・・・
散策路を更に進むと、等々力渓谷の終点にある赤色の
「ゴルフ橋」に着きました。
ゴルフ橋は、昭和の初めまで、渓谷の先にはゴルフ場があり、
そこへ行く際にこの橋が使われていたことに由来しています。
散策路の終点のゴルフ橋から、多摩川まで歩いて来た散策路を
引き返します。
等々力渓谷を流れる矢沢川が、多摩川と合流する上の写真の
玉川排水樋管まで戻って来ました。
ps.
ここ東京側の世田谷区の「等々力渓谷」と、多摩川の対岸の
川崎市の「等々力緑地」とは、江戸時代は同じ「等々力村」
でした。
つまり、「等々力村」は、江戸時代には一つの村でした。
しかし、多摩川の氾濫により、村の中央を流れる様に流路が
変わり、村が分断されました。
(テレビ東京「モヤモヤさまぁ~ず2」から)