(写真は、兼六園のシンボル・二本足の
「徽軫(ことじ)灯籠」)
今回の9/2~3日の日程で、風の盆、白川郷、
ひがし茶屋街へ行ったパック旅行の話しの
続きです。
9月2日の朝、横浜を出て、昼過ぎに金沢駅に
着いたツアーは、金沢駅前から、前回ご紹介した
「ひがし茶屋街」を見物したあとに、直ぐ近くの
「兼六園」へ向かいます。
1日目:横浜駅 → 東京駅 (10:08) → 新幹線
かがやき525号→(12:43)金沢駅
(観光バス)→ 「ひがし茶屋街」→(観光バス)
→ 「兼六園」→(観光バス)→ 「越中八尾」
→(観光バス)→ 砺波(となみ)泊
2日目:砺波 →(観光バス)→ 「白川郷 →
(観光バス)→ 越後湯沢
越後湯沢駅 (19:01) → 新幹線とき号→
(20:12)東京駅 → 横浜駅
「兼六園」は、ご存知の様に、岡山の後楽園、水戸
の偕楽園と共に、「日本三名園」の一つで、
金沢城跡の東南にあります。
日本三名園は、共に、江戸時代の「池泉(ちせん)
回遊式」の大名庭園です。
池泉回遊式庭園とは、中心に池を設け、その周囲
を巡りながら観賞する江戸時代の代表的な庭園
形式です。
偕楽園の梅、後楽園の芝に対して、兼六園は松が
有名です。
特に、下の写真の”北陸に冬を告げる風物詩
「雪吊り」”の作業を終えた「兼六園の松」の
イメージが強いです。
(兼六園のパンフレットから)
兼六園は、もともとは、金沢城の外郭として城の
一部でした。
「兼六園」の名前の由来は、宋の詩人・李格非
(りかくひ)の書いた「洛陽名園記」の文中から
とったもので、「宏大、幽邃(ゆうすい)、
人力、蒼古(そうこ)、水泉、眺望」の”六勝を
兼ねた名園”、という意味だそうです。
以下に、兼六園の見どころを写真でご紹介します。
山崎山という小さな山の上り口の石段の脇に
「芭蕉の句碑」があります。
”あかあかと 日はつれなくも 秋の風”
(「奥の細道」から:金沢にて)
(立秋も過ぎたというのに、夕日は相変わらず
赤々と照りつけ残暑はきびしいが、さすがに
風だけは秋の気配を感じさせる。)
次頁の写真は、兼六園のシンボルの「徽軫灯籠
(ことじ とうろう)」で、片足だけを池の中に
入れた”二本足の灯籠”です。
前方にある虹橋を琴に見立てると、後方の灯籠が
琴の絃(いと)を支える駒に見えるので、徽軫
(ことじ=琴柱)と名付けられたそうです。
上の写真は、「霞ヶ池」(かすみがいけ)で、
兼六園の中心部にある大きい池で、池の中には、
蓬莱島という亀の形をした島が浮かんでいます。
上の写真は、虎が吠えている姿に見えることから
「虎石」と名付けられた石です。
龍石、獅子巌と共に、兼六園の三名石の一つで、
兼六園を守る魔除けの石です。
下の写真は、「眺望台」で、兼六園の六勝のうち
の1つ「眺望」は、ここからの眺めを指すそう
です。
前頁の写真は、「七福神山」(しちふくじんやま)
で、築山に、七福神をなぞらえた天然石が置いて
あります。
七福神山は、12代藩主斉広が造った竹沢御殿の
庭園の一部で、護岸の石組み、雪見橋や雁行橋、
雪見灯籠などの配置もほとんど当時のまま残って
います。
上の写真は、「明治紀念之標」で、兼六園を
見下ろす様な日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
の像です。
西南戦争で戦死した郷土軍人を祀るために、
明治13年に建てられました。
上の写真は、「根上りの松」で、40本以上の根が
土から盛り上がったように見える松で、13代藩主
の前田斉泰が植えたと言われています。
約2メートルも地上部分にせり出した松の根の
壮観な立ち姿が有名です。
上の写真は、「黄門橋」で、長さ6メートル、
幅1メートルもある一枚石です。
”黄門”とは、中国名で中納言のことであり、
3代藩主・前田利常(としつね)が 、従三位
権中納言に昇進した際に名付けられました。
次頁の写真は、日本で最初の「噴水」です。
この噴水の上にある霞ヶ池を水源としており、
自然の水圧だけで、約3.5メートルも噴水が
上がっています。
1861年に、前田斉泰が、金沢城内の二の丸に
水を引くために試作させたと言われています。
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